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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 2 …

 

 

 この庵はひとつの部屋だけで造られている簡素なしつらえだ。普段生活するためではなく、もともとは耕地の物見小屋として造られたものに少し手を加えたのだ。とはいえ、かまども外にあり、日常の生活にはあまり困らない。また、近くには綺麗な小川が流れており、水くみの心配もない。近くの森で薪もいくらでも集められる。

 だからといって、若い娘が人里離れた庵でひとりぼっちで暮らしていていいのだろうか? それが未だに不安でならない。だが、当人はここを居住まいとして与えられたことに何の不足を感じることもないようだ。彼女は狭い部屋の中を自分なりに綺麗に飾って、静かに暮らしている。暗くなれば板を降ろして覆いをするくり抜いただけの窓辺に、季節の花が静かに揺れていた。

 ――誰もここを訊ねてきたりしない。それくらいのことは分かっている。

 瓶からひしゃくで水を汲み、鉄製の土瓶を七輪の上に置く。普通の炊事は外にあるかまどで行うが、今は茶を入れるだけだ。湯が沸くまでの間に、少女は茶道具の支度をした。

 

 …すっかり、娘らしくなって。

 まるで父親のような気持ちになって、その姿を目で追う。そんな風に思ってしまうのも無理はない。元はと言えば、彼女をここに連れてきたのは多矢なのだから。その後、他の者が見向きもしない娘を親身になって世話してきた。


 招かざる客だと言うことは、誰の目からも明らかだ。普通の人間ではない。

 滝のように豊かに流れ落ちる銀の髪、これだけを見れば儚げな美しさで抜きんでている「西の集落」の女子(おなご)。多矢などはあまり縁もない場所だが、男たちが春を買う遊女小屋ではこの「西」の女子はとても人気があるという。だが、少女が持っているのはそれだけではなかった。

 透き通る薄紫の双の瞳。普通、西の集落の民は碧の瞳だ。他民族でも濃紫の眼ならよく見るが、薄い紫というのはあまりにも曖昧で心がどこにあるか分からない感じだ。それだけでも少し辛気くさいのだが、さらに身にまとう巫女装束…飾り珠を連ねた首飾り、耳飾り。

 

 遙か西の果ての山麓。そこに住まう神に近い民がいると聞いていた。あやしの祈りを捧げ、天の声を聞く。長い年月を閉ざされた空間で過ごしていた。そう…その姿を見ることすら、稀だったのである。

 数の少ない同族の中でのみ、血の濃すぎる姻戚関係の末、その姿までが他を寄せ付けなくなっていく。耳に届かぬ神の声を聞いてしまう異民族は忌み嫌われ、その末に争いの火種を付けられた。目の前で静かに客人の茶の支度を整える娘と同じ姿をした者は、もはやこの世に存在しない。戦の結末はあっけなく、一族皆惨殺、と言う無惨な幕を閉じた。


「何故、連れて帰ると言うのか。捨て置け」

 あのとき、父の口からこぼれ落ちた言葉を、多矢は決して忘れない。その時まで、彼にとって父親は絶対的な存在であった。言うことは全て正しく、教養も豊かで人情に溢れている。非の打ち所のない人間とはこのような人を言うのだと、身内ながら舌を巻いていた。

 その父が、この娘を連れ帰ることを拒んだ。ただひとりの心細い少女、残していったところで隣り合った集落の者が世話をしてくれるとも思えない。10を少し出たばかりの幼い娘を置き去りにしろと言うのか。

 多矢にはそれを信じることが出来ず、そして父の意が変わらないと分かってもなお、従うことは出来なかった。周りの大人たちも皆が父同様反対したが、多矢は屈することはなかった。


 …もう、5年も経つのだ。


 東の果て、結界にほど近いこの地は、かの風景に似てどこか懐かしい。花の揺れる窓辺から外を見れば、記憶はあっけないほど容易く過去に戻っていく。

 出逢いの、あの時へ。

 

*** *** ***


 その頃、多矢は13で元服を済ませ、数年が経過した頃であった。

 5年前、と言えば次期竜王と言われている亜樹様が南所にお移りになられて1年が経過した頃だ。多矢はその御方が将来しかるべき地位についたのち、御公務を補佐するお膝元の侍従になるべき者の候補のひとりに数えられていた。ただ、まだ具体的な話もなく、東所で父の元、お務めに励んでいた。

 

 どういう経緯なのかは分からない。水路を巡る争いとか、その程度のことだったのだろう。都に住まう者にとっては名前も聞いたこともない西の果て、領地が隣り合った少数民族同士で諍いが起こる。そこにさらに他の大きな勢力が荷担して、泥沼化した。

 神の声を聞くと言うその民は、古より他の民族たちにとっては危惧の念を抱く存在だったのだろう。取り立てて何か不祥事を起こしたという経緯もないらしい。ただ、他と違うと言うことが恐れとなり、矛先を向けられることになってしまった。

 

 その戦を鎮めるために、竜王様から命を受けた父・多岐が出向いた。
 それに後学のため、多矢も同行することになったのだ。自分の他は父と同じ立場のしかるべき地位のある官僚ばかり。同じような仲間もなく、ただ父の名を利用して団に加わった心地悪さも手伝い、肩身の狭い思いをしていた。

 10数名の少ない遠征団だったので、早馬を仕立てた。幸い、幼い頃から馬術には長けていたので、その扱いには慣れていた。大人たちに引けを取らず、上手に馬を操る。歩けば遠回りして半月も掛かるという道のりをほんの1日半で進んでしまった。

 今と同じ、初夏を迎える時節だったのに、初めて訪れた異郷は寒々しく、その果ては薄紫に煙っていた。まるで黄泉の国への入り口のような気がして、背筋がぞくぞくとしたのを覚えている。

 

 多矢たちが辿り着いた時、もはや戦は終わっていた。だから父が行ったのは残務処理。もしかすると剣を持って戦に加わるかも知れぬと言われていたので気が抜けてしまった。

 勝利した民たちは、自分たちの正当性について理路整然と並べ立てた。彼らから見れば、滅びた神の民族など得体の知れぬもの。些細な出来事を大袈裟に取り上げ、自分たちが少しも間違っていないことをとくとくと説いた。
 竜王様の名代として訪れていた多矢の父は、連日の宴に招かれもてなしを受けた。多岐の印象を良くすることで、竜王様にも快く受け入れて頂ける。そう思ってのことだったのだろう。

 父や他の大人たちは、その宴に表向きは好意的に臨んだ。何も酒宴を歓迎したわけではない、気持ちよいひとときを過ごし、酔いが程よく回ることで、誰もが本音を口にするようになる。今回の戦では不可解な点が多かった。ケンカ両成敗と言うが、滅びた民に致命的な落ち度があったとはどうしても思えないのだ。正当防衛か、侵略か…では、今後の措置が変わってくる。

「これも大切なお務めのひとつだ」
 父はそう言ったが、多矢にはどうしても理解出来なかった。

 

 小さな、何も悪くない民たちが、ほとんど抵抗する暇もなく滅ぼされたのだ。何を言い訳しても、攻め込んだ側の罪は明かだろう。今更、くどくどと取り繕うなんてあまりに見苦しい。死人に口はないのだ。相手の言葉は聞きたくても耳にすることは出来ない。そう思うとやるせなかった。

「…可哀想に…」
 多矢は必要以上に、滅びた民に同情していた。だから、年齢が若いことを理由に宴も早々に引き上げ、ひとりもの思いに耽る夜が続いた。

 数年前、生みの母を病で亡くした為もあったのだろう。それもあって、多矢は都の父の元にやってきた。それまでは北の集落の長の家で暮らしていた。権力争いにも、雅やかな都暮らしにも無縁の生活だったのだ。母はそれなりに名の通った家の娘であったが、所詮は側女(そばめ)。わが子を連れて都に上がる身分ではなかったのだ。

 

 大人たちとは行動を共にする気にもならず。時間を見つけては、骸の転がる山間の村に行き、ひとつでも多くの墓を作ってやろうとひとりで頑張った。足を踏み入れれば、ついこの前まで穏やかな生活の営まれていたはずの小さな村に、どんな悲劇が訪れたのか容易に想像が付く。小さな子供も、年よりも、男も女も。みんな身を寄せ合うようにかばい合うように刃や毒矢に倒れていた。

 …何のために、人は争うのだろう。自分とは異なるものを排除しようとする。

 骸の腐って朽ちていく臭気、それを上回るおぞましい私利私欲の渦。やわらかな人情に溢れる集落で何不自由なく過ごし、さらに都での雅やかな暮らしに慣れていた多矢にとっては、初めて見る人間の暗い部分であった。こみ上げる吐き気と戦いながら、ただ、自分に出来るささやかな弔いを続けていく。

 

 そんなとき、カタ、と背後で音がした。

 振り向いた彼の目に映ったのは、返り血の飛び散った衣に身を包んだ幼い娘。屍の中から、どうして抜け出たのだろう…弱々しい瞳で、それでも何かを訴えるようにこちらに腕を伸ばしてきた。

 

*** *** ***


 父がどうして、そこまで彼女を拒んだのか。それを思い知ったのはここに戻って、すぐのことだった。

 ああは言ったが、まあ、連れてきてしまったものは仕方ないと、父は少女の住まう庵を用意してくれた。
 だが、そこが都の者たちの生活する空間からあまりに離れていることに、多矢は驚いた。父の居室に置いて貰えるとは思っていなかったが、せめて御館に仕える者たちが居室を構えるその中に、住まうことが出来るだろうと考えていたのだ。
 東の耕地のそのまた向こう…あとは結界の果てがあるだけの寂しい場所だ。普通の人間だったら、3日もいると体調を崩してしまう。結界の途切れる辺りは急に気が薄くなるのだ。

 父が何も理由を言わずにその場所を示した時、最初は「何故」と信じられなかった。だが、ここに来るまでにも体力が落ち、傷は癒えてもどんどん生気の消えていく娘を連れて庵に着くと、父の言わんとしたことに気付いた。

 …気が薄い、と言うことは普通の人間にとってはとても暮らしにくいことだ。だが、よくよく思い起こしてみると、西の果ての山麓もこのような気候であった。多矢が訪れたのは夏の盛りだったが、それでもこちらの晩秋のような陽気で、厚めの重ねが手放せなかった。

 

 自分の身の上に起こったあまりにも残虐な出来事にショック状態になった少女は、多矢以外の人間を拒否した。それも引っ掻いたり、暴れたりと行動が尋常でないので、身の回りの世話をする者も置けない。まあ、自分のことは自分でどうにか出来るようであったので、ひとりで置くことにした。幸い、都の竜王様御館周辺は治安も良い。寂しくはあるだろうが、危険は少ないだろうと考えた。

 数日に一度、様々な使い物を持って訪れはしたが、少女にはただひとつ、戻らないものがあった。…そう、彼女にとっては濃すぎる気の中で、言葉を発する術を失ってしまったのだ。


 異なる者として、疎んじられるのはこの地でも同じ。西の娘、と男たちは遠目に見れば喜ぶが、実際に近くに寄れば、恐れおののいて逃げていく。まるで魔物でも見たように。

 

 ――薄紫の瞳に射抜かれると、正気ではいられなくなる。

 

 少女の生まれた土地の民族たちはそんな風にして、長い間、周囲の者から迫害を受けていた。都には西から来た者も多くいる。噂が噂を呼ぶ。人の寄りつかない寂しい庵で、それでも彼女は自分の身の上を嘆くことなく、慎ましく毎日を送っていた。

 しかし、いつまで繰り返し季節が繰り返されるだけではない。5年の歳月はあどけない顔立ちだった少女を匂やかにほころばせていくのに十分な時間だった。

 

*** *** ***


「…多杖(たえ)」
 物言えぬ娘に、多岐はそう名付けた。それも父にとっては意に添わないことのひとつだったらしい。

「北の集落・多の一族」…それは、古のより竜王家に従順に仕える者としてその名を世に知らしめている一族。直系の者が、歴代の竜王様の一番の側近になっている。しかも、多の一族は「北の集落」最大の勢力。その頭領となれば、すなわち北の集落の長となる。

「多岐」・「多矢」…このように、「多」の字を頭に付け、二文字の音にするのが、多の一族直系の証であった。その由緒正しい名を、拾い子に付けたことで父は憤慨しているのだ。その上、理由はそれだけではない。「多杖」とは…父の側女であった多矢の亡き母の名であったのだ。

 父の言うことは大抵が正しい。だから、多矢はあまり異を唱えることもなかった。それほど従順でありたいと気を付けなくても、ただ素直にしていれば父とは上手く行っていた。…そう、多杖のことがあるまでは。

 多杖をこの地まで連れてきて、あの庵に住まわせ、あれこれと世話を焼く。もちろん、御館にお仕えする者として、お務めに支障が出ないように注意した。誰にも心を開かぬ少女が、自分にだけ見せる娘らしい表情。何処があやしの一族の末裔と呼ばれるのだろう。そんなことは微塵も感じられないのに。ひとりっ子の多矢にはまるで妹が出来たような気がする。兄らしく振る舞うのも楽しかった。

 周囲の者たちは色々と陰口を叩いているようだが、気にしなかった。何があやしの者だ、多杖はそんなはずはない。その辺にいる当たり前の女子よりもよほど教養があり、優れた気質を持っている。
 西の果ての山麓では特殊な言葉を使っていたらしい。自分で言葉を口にすることの出来なくなった少女だが、そうならなくても言葉には不自由した。たとえば「皿」と言う単語ひとつでも、分からないようなのだ。これには驚いた。だから、多矢は根気強く言葉を教え、さらに文字を書くことを教えた。気付くと難しい漢詩も難なく読みこなしている。余りの吸収の良さに舌を巻いた。

 薪の集め方、火のおこし方。多矢も故郷にいる頃は当たり前のように行っていた日常生活だったから、それを教えるのは簡単だった。思いつくままにあれもこれもとやっていると短い時間などすぐに過ぎてしまう。毎日通えるほど、時間にゆとりがない自分が疎ましかった。

 御館で様々な年中行事をこなしていけば、1年なんてあっという間だ。亜樹様と、現竜王様の姫君・沙羅様婚儀もあり、この1年ほどはとくに慌ただしく過ごしてしまった。


 実はこの少女はここ半年ほど、この庵を留守にしていた。それは多矢に知らされないままに、父の意によって勝手に決められたことであった。ある日、もぬけの殻になった庵に驚いて父に詰め寄ると、かの人は少しも様子を変えずに静かに言い放った。

「あれは、身よりもない娘だ。この先、この地で生きてゆくなら自分で稼ぎ出す術を身につけるべきだろう」

 

 南峰の集落という地がある。そこで、組紐職人を多く産出する集落があると聞く。多杖はそこへ修行に行かされたのだ。もともと手先は器用で、刺しものなども巧みにこなした。特殊な技能を習得する必要のある組紐の技術を身につければ、どこへいても役に立つ。
 この地では若い娘たちが細い紐を髪に編み込むのが流行していたし、官職に就く男子も皆、髪を結う。美しい組紐は引っ張りだこなのだ。

 

 それだけ告げると、父はこの話を終わらせようとした。

「ですが、父上。多杖は…」

 この地にいて、竜王様の一の侍従と言われる多矢の父が面倒を見ていると言うことが知れ渡っていても、なお、多杖は皆から疎んじられる。見知らぬ土地で心細くしていないか。何しろ距離のある地だ。正式に亜樹様の侍従となり、前にも増して忙しくなってしまった。そんな遠くにやられてしまっては、幾日も暇を貰って様子を見に行くことも出来ない。

「お前は。…まだ、あれをそのような名で呼んでいるのか」

 だが、父が反応したのは全く別のことであった。忌々しげに多矢の顔を見やる。そのような表情を父がするのは本当に珍しいことだから、こちらも顔が強ばった。

「多矢、お前はもっと自分の置かれた立場をわきまえた方がよい。…分かっているな? お前はゆくゆくは北の集落・他の集落の長となるべき人間。いつまでも拾ってきた娘を、犬や猫のように可愛がっていていいわけはない。…そもそも、あの庵には近づくなと言っていただろう? 人の口には戸が立てられず、と申すだろう。皆がお前を何と噂しているか知っているか?」

 …ああ、また始まった。いつもの小言だ。多矢はすぐにそれに気付き、これ以上の物言いをやめた。唇を噛んで、言いたいことを飲み込む。

 自分はどう言われても構わない、いくら父とはいえ、多杖のことを悪く言うのは許せなかった。

 

*** *** ***


「あちらはどうであった? …辛いことはなかったか」

 多矢は問いかける。少女はそれに応えてにっこり微笑んだ。そこには微塵のかげりもない、それがせめてもの救いであった。

続く(031018)

 

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