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「今日は南の庭をご案内致しましょう。季節の花々も見頃で、それはそれは美しいですよ」 一夜明けて。朝餉の膳を進めながら、燈花の夫となった男はにこやかに言った。客人も去ったので、食事は夫婦のために設えられた対でとることになったらしい。侍女たちの手を借りて身支度を終えると、もう次の間にはすっかりと準備が整っていた。 昨日までの晴れ着とは違い、肩から掛けた重ねはとても薄く軽やかなものになっていた。下に重ねるのも数枚で、ほとんど身につけていることを忘れそうになるほどである。しかし、さりげないようでいて手の込んだ織り文様は相変わらずで、裾に広がるようにびっしりと施された刺しものが目に眩しかった。柔らかく初々しい紅色が、新妻であることを意識されているようで落ち着かない。 ――馬子にも衣装、とはまさにこのことを言うのかしら……? 昨夜も夜遅く寝所を抜け出していった夫に対し、もはや情などが湧くはずもなかった。このように人の目があるところでは、自分を何処までも恭しく扱う。しかし、裏に回った真の顔はどこまでも残酷だ。一体どこの世界に、娶ったばかりの正妻をないがしろにする男が存在するだろう。ことが公になれば、ただでは済まされぬ事態となるのに。 「それは、嬉しゅうございますわ。こちらに到着してからずっと、お誘いくださるのを心待ちにしておりましたの。そこまで自慢なさるとすれば、どんなにか見事なことでしょう」 燈花の受け答えに、男は満足げに微笑む。障子越しの朝の光はそのくっきりとした顔立ちを際だたせ、本物以上に美しく見せているように思われた。……そう、これは全てまやかし。ただ高貴な御方の真似事をして悦に入っている愚か者の姿に相違ない。だが、それを全て明るみに出すにはまだこちらの条件が悪すぎる。虎穴に入らずんば虎児を得ず、と言うではないか。 「……お方さま、お代わりは如何なさいますか?」 耳に馴染んだ声が傍らから聞こえて、ハッとする。自分の給仕をしてくれているのは、兄の館からただひとり連れてきた年若い侍女であった。夜が更けて人払いをされてしまうまでは、始終そばにいて気遣ってくれる。相変わらず、おどおどと消えそうな態度で新しい務めに戸惑っているのは明らかだ。 「え……、あら」 思わず、箸が止まる。自分でも全く気付いていなかった。上の空で食事をしていたはずなのだが、いつの間にか膳に並んだほとんどの皿が空になっている。初めに見たときにはとても食べきれる量とも思わなかったのに、口当たりがいい上に味に変化があり、思いがけずに箸が進んでいたらしい。侍女の問いかけがあまりに控えめで、周囲の者に届かなかったのだけが救いである。 「もう、こちらだけで結構よ。ありがとう」 そう答えながら、燈花は自分の頬が熱く染まるのを感じていた。確かに汚らしく食べ散らかすのは食事の作法としてはふさわしくないと思う。だが、何もかもをがつがつと舐めるように平らげるというのはどうであろう。普段からろくな食事をしていなかったように思われたら不本意である。 居住まいも、衣も、調度も。何もかもが夢の中の造形のように素晴らしい。だからこそ、かえってまがいもののような気がしてくるのだ。 ――何があっても、この生活がその代替えとなることはあり得ないわ。 奥歯で噛んだ柚の香が口いっぱいに広がって、満たされていく気持ちを必死で堪えていた。
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「……まあ、これは」 建物に沿って右に折れると、初めに目に飛び込んできたのは数え切れないほどの薄桃の花を付けた低木であった。愛らしい花弁が放つ香りで、辺りは甘く満たされている。すうっと細く伸びた枝先で、鈴のような花が揺れる。美しい音色が耳まで届きそうな気がした。 「ご存じでしょう、夏陽(かよう)の花。丁度、姫のご到着と共にほころび始めましたよ。これからしばらくの間は館の中までこの香りでいっぱいになりますね」 そう告げられて改めて眺めてみれば、薄桃の微笑みが全てこちらを向いているような錯覚を覚えてしまう。まるで、自分がこの館にやってきたことを歓迎しているかのように……。そもそも草木が意志を持ちこちらに働きかけることがあるはずもないのに、どうかしていると思う。 やがて。広々と開けた場所に出る。美しく設えられた遣り水が東西に走り、中央には大きな池が造られていた。艶やかな朱色に塗られた太鼓橋が、細い流れに幾重にも掛かっている。渡った奥の方にもさらに美しい花園が見えた。右手奥には一抱えほどの林があり、すらりと高い木が若葉を付けた枝を広げている。 「こちらは、白鳳(はくほう)の花ですね。低木で育つ地もあるそうですが、この辺りではこのように立派な大木に成長します。ただ、花の見頃は夏の終わり。まだまだ、お待ち頂かなくてはなりません」 燈花が訊ねるまでもなく、男は次々に草木を指しては説明をする。ただ言葉を並べるだけではなく、時折は古い和歌などを交えて趣きをみせるのには驚かされた。天の色に染まった美しい衣が、明るく降り注ぐ光にキラキラと輝いている。真っ直ぐにこちらを見つめる眼差しに応えることがどうしても出来ず途方に暮れるのだが、これではどうにも目のやり場がない。 「さあ、こちらへ。……足下には十分お気を付けください」 太鼓橋に足をかけ、男が振り向く。静かに差し出された手に、知らずに応えていた。……やはり、これは人のものだ。心の片隅でそんな風に考える。柔らかくて広く、そして温かい。だが、これも全てがまやかしなのである。 足場をしっかり付けた橋は、思っていたよりもずっと歩きやすかった。難なく渡り終えて振り向けば、そこには今までとは全く違った景色が広がっている。 「……ここは『朱雀の庭』と名付けております。夏の盛りにはもっとも美しく眺めることが出来るよう、様々な趣向を凝らしてあるのですよ」 ――ならば、他に三つの庭があるというのかしら……。 男の満足げな横顔を眺めながら、ふとそんな風に思った。言われてみればここは館の敷地内でも南側に当たる。「朱雀」とは四神のひとつ。南を守護する聖獣で、四霊獣の鳳凰。季節をなぞらえるなら「夏」となる。これだけの規模の庭をさらにいくつも設え、維持して行くにはどんなにたくさんの金と人手が必要であろうか。 さながら夏を一枚の屏風絵に閉じこめたような風景。その奥にゆったりと佇むのは、燈花がすごす対。正面は丁度、寝所の辺りになる。ならば、夜ににじり口から響いてくる水音はこちらの流れなのだろうか。この庭を出て、一体この男は毎夜何処に向かっているのだろう……? 細道はいくつにも別れ、ひとつは森に、ひとつは林へと消えている。その行く先を確かめるには、まだ自分の中にある情報が少なすぎた。きっと何か、想像も付かぬほどの大きなものがどこかに隠されているはず。私腹を肥やし栄華を自分のものとするこの不届き者の逆賊が、真に頼みとするものとは何であろう。
わずかに手の内を見せ、さらにこちらの口を封じようとする不届き者である。敵として不足はない。ここは長期戦で望むのが良策と言えよう。
高い鳴き声を上げて、大きく羽を広げた鷹がゆったりと頭上を過ぎていく。いつかあの鳥の如く真相の全てを見渡せる日が訪れるのだと、燈花はしっかりと確信した。
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何事にしてもそうであるが、見るからにきらびやかに派手に仕上げるばかりが贅沢とは言えない。同じ絹織物にしてもただうるさく色数を増やすよりも、色目を合わせ全体的に落ち着いた仕上がりにした方が奥行きがあるというものだ。 だからこそ、この男は謎めいているのだ。何をその身にまとおうと、内面から何とも形容のしがたい自信が満ちあふれている。深いその瞳の色を一度目の当たりにしてしまえば、心まで奪われてしまうのではないかと思うほど。 「夕刻までには戻りましょう、お寂しいでしょうがご辛抱ください。出来ることなら一緒にお連れしたい程ですが、大臣家の姫君をそのように軽々しく扱っては、どんな沙汰が下るとも知れません」 普段は垂らしたままにしている髪を上の方できりりと結んだためか、顔立ちがひときわはっきりしたように思える。もう先ほどから供の者が表で待っているというのに、なかなか出て行こうとしないのもふてぶてしく感じられた。
――全く。そのようなこと、微塵もお考えではないくせに。よくもまあ、口から出任せを並べ立てられるものだわ。 今朝もこの男は明け方近くまで戻ってこなかった。一度くらい寝ずに待っていてやろうと思うのだが、やはりもう少しのところでうとうとしてしまう。その隙にしっかりと隣に侍っているのも腹立たしい限りである。まるで恋人にするように髪に口づけたりする様もわざとらしくて嫌だった。 同じことならば、婚礼そのものを白紙に戻した竜王様の方が遙かに潔い。やはり高貴な御方というのは清々しいお心をお持ちなのだ。目の前の男のように、大も小も全てのものを手にしようなどと小賢しいことは決して考えない。
「まあ……、夏月様はご立派な御方ですもの。西南の大臣であるわたくしの兄のことも、本当は少しも恐れていらっしゃらないのでしょう……?」 障子戸の向こうに控えている者たちは、きっと燈花が夫を引き留めていると思っているのだろう。何故そのように誤解されなければならないのか、情けなくて仕方ない。男はその質問には答えず、すっと立ち上がった。 「本日は、私の弟が遊びに来ることになっております。兄嫁として立派におもてなしを願いますよ?」 するりと開いた障子の向こうから、柔らかな夏陽の香りが漂ってきた。
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昼過ぎにやってきたその人は、こちらが何も言わないうちに表側からは人目に付きにくい広間の縁を陣取っていた。そこから見えるのは、秋の庭である「白虎」。今は花の姿もなく、ただ葉が生い茂っているだけであった。 まだ独立して館を構えていないという彼は、ここからさらに奥に入った「月の一族」の長、すなわち燈花の夫の父に当たる領主の館に同居していると言った。四人の男兄弟の末子だけあって、人なつっこく年齢よりもいくらか幼く感じる。くりくりした瞳で真っ直ぐにこちらを見つめられても、自分の夫にあるような鋭いものは感じ取れない。燈花が想像する純朴な田舎官僚そのものの姿であった。 「兄が姉上のことをどんなにか眩しいほどに大切にしているかと言うことは、すでにこちらの館まで届いておりますよ。きっと、領地の隅々までその話は知れ渡っていることでしょう。今頃、先々であれこれ言われているはずです。僕も是非同行して、うろたえる兄の姿を見てみたいものですよ」 素直な眼差しで見つめられると、頑なな心も溶けていきそうな気がするから不思議だ。だいたい、この館の使用人にしても、過日の宴席での客人にしても、皆とても自分に心地よく接してくれている。いや、言い方を変えれば、胡散臭いのは夫となったあの男ひとりのみである。周囲の者がこのように大らかに受け止めてしまうから、あの者がさらに増長するのではないか。
本日の客人は、名を「秋月(シュウゲツ)」と言った。だから、この秋の庭「白虎」が好きなのだと笑う。一族の別邸であるこの館は子供の頃から親しんで通っていた場所だそうだ。 「月の一族」とは、最近この者たちに付けられた俗称であり、それは領主である人の名「悠月(ユウゲツ)」と四人の息子の「冬月(トウゲツ)」「春月(シュンゲツ)」「夏月(カゲツ)」「秋月(シュウゲツ)」に由来されていると思われる。西南の大臣家の重臣でもこのように俗称が付けられる例は他にはなく、それだけ周囲の注目が集まっていると言うことなのだろう。
「兄が本当に羨ましいですよ。思いがけずにこんな幸運に巡り会うことが出来たのですから。そう思えば、あのはしゃぎようも許してやらなくてはなりませんね。姉上がこちらにお出でになることが決まってから、誰にも彼にもその話ばかりですよ。あれでは任された領地が守れるのか不安になりますね。……まあ無理もないでしょう。私たち下々の者にとっては夢のような出来事なのですから」 明るくそう言われると、こちらとしてはもう頬を赤らめて俯くしかなくなってしまう。恥じらっていると思われるならそれでいい。内側に隠した幾重もの嘘を悟られずに済むのであれば。あの男を欺くことなら難なく出来る。でも、自分を信じて慕ってくれる者たちにまで偽りの心で接しなければならないとは、なんと辛いことなのだろう。 「姉上も大船に乗ったつもりで過ごしてください。兄だけではなく、我が一族皆であなたを歓迎します。このような田舎住まいを選んでくださったのですから、もう何なりと我が儘を仰ってくださって宜しいのですよ。出来る限りのことは致しますから」 そう告げる真っ直ぐな瞳が見つめるのは、自分の兄が心底愛している女子。期待通りの微笑みを返しながら、心は次第に冷え切っていく。
――我が儘なんて……、一体何を言えばいいのか分からない。そのようなことが許されたことは今までに一度もなかったから。
何か大きな存在に今も怯えている。その正体を見極めることが出来ぬまま、燈花は季節を待つ静かな庭を見つめることしか出来なかった。
つづく(050623)
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