2003年9月1日発行 No.423
巻頭言より
訓練について
島 隆三
前号に続いて、「訓練」ということで、一言述べましょう。
「心と体が人間を作るように、聖霊と訓練がキリスト者を作る。」という言葉をご存知ですか。聖霊がキリスト者を造ってくださることには誰しも異存はないでしょうが、訓練が・・という点はどうでしょうか。案外この点を軽視してきたのではないでしょうか。
スポーツ選手ならば、訓練の大切さはよくわかっています。訓練なしに競技に勝てるとは誰も思いません。
信仰生活も競走に譬えられています。
「あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(コリント一 9・25)
このように奨めるパウロ自身は「自分の体を打ちたたいて服従させます」と、厳しいことを語っています。「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と。
自分の体を打ちたたいて服従させるほど、主(教会)の訓練に服したことがあるでしょうか。一度でも、断食して祈ったことがあるでしょうか。そうしなければ救われないということではありません。わたしたちの救いは「恵みにより、信仰によって救われました」(エフェソ2・8)とある通りです。しかし、救われたお互いは、神に対する感謝の応答があるはずです。これをカトリック教会は人間の義務として、そこから「神人協力説」が生まれました。すなわち、人間の救いは神と人間との協力が必要だという教えです。これに対して、断固「ノー」と叫んだのがルターです。そして、もう一度「恵みのみ、信仰のみ」の原則に立ち返ったのです。後の教会は、そのルターの主張を正しく受けとめず、「安価な恵み」(ボンヘッファー)にしてしまったかもしれません。ウェスレーは当時の教会の「無律法主義」「無道徳主義」を警戒して「福音的神人協力説」ともいうべき教えを主張しました。そして、大きな神のみ業を拝したのです。
では、教会の訓練とは具体的になんでしょうか。それは「生活綱領」に書いてある通りです。「聖日礼拝・祈祷会その他の集会を重んじ、聖餐にあずかり、伝道に励み、時と財と力をささげて・・」また、「日々聖書に親しみ、常に祈り、敬虔・純潔・節制・勤労の生涯を全う」し、「家庭の礼拝を重んじ・・・」ということです。これらは自らの意思によって、進んで主と教会の訓練に服するということです。
しかし、自ら望まなくても、主が必要と認めたら主の訓練はあります。
中国の霊的な大指導者であった王明道師の本を読んで衝撃を受けたことがあります。師は、共産主義革命が起きた時投獄され、二十数年を獄中で過ごしました。晩年に体調をくずしましたが、1979年の宗教自由政策によりようやく釈放されました。釈放された翌年、香港の伝道者がインタビューを許されたのです。その一節に、
――もし先生が刑務所に入らなければ、もっと牧師として多くの働きができたのではありませんか。
王牧師 いいえ、そうは思いません。私が刑務所に留まって行なった働きは、刑務所の外にいて行なったであろう働きよりも大きいと思います。
――刑務所の中でどんな働きをしたのですか。
王牧師 私は主から訓練を受けました。これこそ最も大きなことです。・・私自身も霊的に成長することができたのです。試みと苦難を通し、私は多くの実を得たのです。 (王明道「生命の冠」より)
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