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2003年12月1日発行 No.426
巻頭言より

不安を乗り越えて
                                         島  隆三

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。(ルカによる福音書1・28,29)

 マリアは天使のみ告げに畏れと戸惑いを感じた。口語訳では「ひどく胸騒ぎがして」と訳されている。神の恵みに与かることほどすばらしいことはない。しかし、それはまた神から使命を与えられることであり、そこには畏れと戸惑いがあることは当然なことである。マリアだけではなく、聖書において神に選ばれて使命に立たされた人々は、皆この畏れと戸惑いを感じたのである。
 クリスマスの出来事は、このマリアの畏れと戸惑いから出発したことを覚えたいと思う。
 私たちの人生においても、何度かこのような畏れと戸惑いを感じることがあるのではないか。私たちの場合も、昨秋「関東アシュラム」で開拓伝道を示され、昨年の交励会主催の一泊研修会で皆さんに牧師の発題として申し上げた(「西川口だより」413号参照)。自分たちの年齢も考えながら祈りつつ一年を歩む中で、この度の思いがけない転任のことが出てきた。要は、前号に記したとおり、主のみこころは何かということである。

「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネによる福音書16・21)

 目下、私たちの教会としてはこのような不安の中にあることはやむを得ないと思う。しかし、先のマリアの場合も、また、主が取り去られようとする弟子たちの場合も、それは先が見えない不安と怖れであり、神の御計画は着々と進みつつあった。
 西川口教会は、今もう一つのハードルを越えて成長・飛躍する時を迎えているのではないか。新しい試みは、どんな場合でも不安がある。けれども、そういう不安と怖れを乗り越えてはじめて新しい世界が開けるということも真理である。
 マリアは天使のみ告げによって男の子を産むと聞いても、それが何を意味するかを始めから悟った訳ではないだろう。ただ、何か重大なことに今自分が関わろうとしており、そのために自分が神に選ばれたということを感じて畏れで一杯であった。
 十字架に向かってまっしぐらに進んで行かれる主イエスの後に従う弟子たちも、不安と戸惑いで一杯であった。十字架の向こう側に復活が待っているとは、その段階では知る由もなかったからだ。
 「冒険のない信仰は、信仰に値しない」という言葉がある。アブラハムの信仰の旅立ちもまさに冒険への旅立ちであった。
 すでに若くはない私たちの旅立ちも信仰を要するが、残される教会はもっと信仰を要するだろう。しかし、いずれの場合にも、そこに神のみ手があり、神のみ心から外れない限り、必ずそこから新しい何かが生まれ、思いがけない復活の世界が開かれると信ずる。それが信仰の世界の変わらない原則である。
 年毎に迎えるアドベントであり、クリスマスではあるが、今年は特別にマリアの信仰を慕わしく感じる。マリアは受身の女性であったが、しかし、与えられたみ言葉を深く思い巡らし、反芻して、自らにそれが成就することを体験した信仰の女性でもあった。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1・45)とは、マリアに対するエリサベトの言葉であったが、私たちも、この幸いに与かるお互いでありたいと願う。

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