2004年1月1日発行 No.427
巻頭言より
祈りの教会として
島 隆三
新年を迎えましたが、今年は当教会にとって新しい宣教の第一歩を踏み出す年となるでしょう。そのような期待と祈りをもって前進して参りましょう。
札幌の教会
私は札幌の教会で信仰を育てられましたが、1961年2月に恩師、伊藤馨牧師が突然天に召されました。伝道旅行の旅先での事でした。七十代半ばとなられて、心臓の悪い先生には、北海道の冬の寒さはこたえたであろうと思います。当時、まだ学生であった私にとって、先生の召天は信仰の新しい一歩を踏み出す契機となったように思います。
先生が召されて、すぐ奥様の須磨先生が後を継いで牧師になられました。須磨先生もお歳はほぼ同じで、以来九十歳を過ぎるまで、お独りで教会と講壇を守り抜かれたのです。ある日の北海道新聞に「おばあちゃん牧師がんばる」というようなタイトルで大きく報道されたことを記憶します。しかしどんなに元気とは言え、八十代、九十代のおばあちゃんが一人で教会のご用をすることは大変なことです。当然、役員の方々が責任を持って牧師を支え、教会員の一人ひとりも祈りをもって牧師、役員を支えたに違いありません。一昨年、郷里に戻った時に祈祷会に出席しましたが、八十代、九十代の先輩たちがずらりと並び静かに祈る姿に感動したのを忘れ得ません。この祈りの空気は一朝一夕で生れるものではないとしみじみ思いました。
人間的に言えば、早く若い牧師を迎えて態勢を一新した方が良かったと言えるでしょう。しかし、教会は弾圧迫害の嵐の中でかえって成長前進したように、人間の常識では計れないところがあります。
仙台の教会
第二の母教会となった仙台の教会の場合は、私が仙台に行ったその春から、中島代作牧師のご子息である豊師が東京聖書学校を卒業して伝道師となって着任しました。やがて同じ伝道師の和子師と結婚され、親子二代が牧会するという恵まれた教会でした。そこから私は献身して東京に出ましたので、長く留まる事はできなかったのですが、この教会もまさに祈りの教会でした。数年後に中島代作牧師が天に召された時、ご子息の豊牧師が後を継ぎ、以来今日まで三十年近くが過ぎましたが、その間に立派な会堂を献堂し、仙台市の中心において市の代表的教会の一つとして今日まで歩んで来ました。父、代作牧師と現在の豊牧師とはタイプが全く違うので、古い信者の中には先代を慕う兄姉もあったでしょうし、豊師も息子としてやりにくい面もあったかと思います。しかし、教会は違うタイプの牧師を迎えることで、信仰的に成長することがよくあります。これまた人間的に軽々しく判断することは慎むべきことであります。
もちろん教会の歩みをすべて肯定することはできません。札幌の教会も仙台の教会も、反省すべきことはたくさんあるでしょう。しかし、「祈る教会」には不思議に弱さや欠けを補って余りある宣教の実りが与えられることを今日まで何度も見てきました。
私たちの教会
さて、問題は私たちの教会です。創立以来、半世紀余りを経たとはいえ、先の二つの教会から見ると、まだまだ若い教会という印象を拭えません。しかし、若いということはなお成長する可能性に富んでいるという事です。今後は若い教師を支えて、皆が一丸となって羽ばたくこと、特に「祈りの教会」として成長して欲しいと切に願います。祈りの欠けを他の何かで補うことはできないでしょう。
「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・目標を目指してひたすら走ること」(フィリピ3・13)を切に祈りつつ。
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