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2004年5月1日発行 No.431
神の国と聖霊の力
金田 佐久子
しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ14・26)
2004年の教会暦では、聖霊降臨日(ペンテコステ)が5月30日になります。
主イエスの公生涯は「神の国が近づいた」との宣言で始まりました。主は「神の国」を宣べ伝え、群衆がついてきた時は喜んで迎え「神の国」のことを話しました。主の奇跡・いやし悪霊の追い出しは「神の国」の現れのしるしでした。
「神の国」とは「神の支配」のことで、創造主である神の治める領域を指します。エデンの園(創世記2章)がその最初のモデルです。人は園の管理者として置かれ、神と顔と顔を合わせる交わりをもち、助け手と共に神の愛に満たされ、幸せに暮らしていました。しかし、人がサタンの誘惑に負けて罪を犯したため、神との関係そして人間関係が破壊され、自己中心、すなわち罪の奴隷としてしか生きられない状況に自ら閉じ込められました。
神は、時満ちて御子イエスをこの世に送られました。十字架による罪の贖いを通して、失われた神の国を回復し、神の民にこれを受け継がせるようにするためでした。十字架の死から三日目に復活されたイエスが弟子たちに現れた時、「神の国」について話されました(使徒1・3)。主は、再臨の時まで、すべての人を神の国へ招き、祝福に与らせようとしておられるのです。教会は、キリストの体、キリストは教会のかしらです。教会は、この世にあってキリストの口となり手足となって神の国を宣べ伝え、神の国を証していく神の民の共同体です。
さて、マナの会(ディボーションスクールを修了した者たちが励まし合い学び合う会)で、ここに書いた神の国と神の救いの御計画と教会について学びましたが、そこでこんな会話がありました。「神様と顔と顔を合わせて交わりが持てる。いつかそんなすばらしい時が来るのが楽しみです」とお話したら、「わたしはまだもうちょっと・・」と言うのです。理由をきいてみますと、神の国とは天国、天国とはすなわち「死んでから行く所」という理解であったからです。なるほどと思いました。また、「教会は『神の国の前触れ・しるし』であるなら、『神の国は西川口教会を見ればわかる』ということです」と言ったら、クスッと苦笑がもれました。これもわかる気がするのです。
キリストを信じるとは、心に生けるキリストを迎えることです。主イエスの到来は「神の国」を伴うものであり、信じる者には神の国が訪れています。しかし、神の国の民であるという自覚は、言葉を尽くして説明されても持てるものではなく、主との交わりに応じて体験的に深められていくものです。それは、子供が成長し自分が家族の一員である、ということを客観的に自覚するようなものでしょう。私自身、神の国の回復を理解し始めたのは、数年前のイザヤ書のディボーションによってでした。皆が途上にあるのです。
主の弟子たちは、師の教えを聞いても悟ることができず、十字架につまずきました。主は彼らを投げ出したり見捨てたりしませんでした。神の時が来て、彼らに聖霊が降り力を受ける時、彼らが御自分の証人となるということをご存知であったからです。
聖霊は、わたしたちが神の国を受け継ぐための保証であり、心に神の愛を注ぎ、すべてのことを教えてくださる「助け主」です。聖霊を、今、求めましょう。
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