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2006年 7月1日発行 No.457 

わたしにつながっていなさい

                            金田 佐久子
 
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。(ヨハネ15・4)

  ファミリーキャンプを前に
 今月のファミリーキャンプにあたり、教会の目標、今年度の目標を覚えつつ、御言葉を求めておりますと、ヨハネによる福音書15章1〜17節を示されました。あらかじめ黙想し、さらに、教会アシュラムで学びんだ「観想」できたら良い。そのように備える方が起こされるならば、ファミリーキャンプを実施することだけに集中するのではなく、子供も大人も共に主の愛を豊かに味わうことができると信じます。またキャンプに参加できない方も黙想はできますね。同じ御言葉で養われたい。共に祈りを合わせてまいりましょう。

  イエスはぶどうの木
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)。主イエスは、ご自身はぶどうの木、そして父、すなわち天の父は農夫であると語ります。ぶどうは実を結ばなければ何の役に立ちません。肌はごつごつして枝も曲がっています。木材にも、日よけや風よけにも、観賞用にもなりません。ぶどうは実を結ぶように造られているのです。主イエスは、ご自身がそんなぶどうの木であり、弟子たち(わたしたち)がその枝なのだと示されました。
 旧約聖書で神の民イスラエルはぶどうの木と呼ばれています。神の選びの民はぶどうの木。その比喩を受継ぎながら、「わたしはぶどうの木」と主イエスは言われます。神の民の中心に、神の御子イエスがおられるということです。ここに新しさがあります。イエスは神から来られ、人となられ、「わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)お方です。主イエスはわたしたちのただ中にいてくださいます。
 ところで、ぶどうの木について言われていることはまったくその通りです。実を結ぶように手入れをする、実を結ばない枝は取り除く、木につながっていなければ枝は実を結ぶことができない、と。誰でもうなずけます。しかし、わたしたちが主イエスにつながっている枝であるとは、実際どういうことなのでしょう。

  わたしの愛にとどまれ
 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら・・・」(7節)。主イエスにつながるとは、主の言葉がわたしたちの内にいつもあることです。外から語りかけてくださる主の言葉をいただくとき、主につながっています。
 主の言葉は、もともとわたしたちの内にはありません。わたしたちは、最初自分が神を選んで信じたと考えていたような者たちでした。しかし、実は主がわたしたちを選んでくださった(16節より)ので、わたしたちは神を知り、信じることができたのでした。
 主が選んだとは、主が愛されたということです。主イエスは父の愛でわたしたちを愛し、最上の愛で、友のために命を捨てる愛で、これからも愛してくださる。これ以上の愛があるでしょうか。ですから主は「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)。
 主につながるとは、いつも、この愛の言葉を聴き、この愛を追い求め、この愛で互いに愛し合うことなのです。
 
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