トップページに戻る西川口だよりに戻る

2007年 9月1日発行 No.471 

祝福される教会

                            金田 佐久子

 8月20日から22日まで、伊豆の天城山荘にて開催された第54回こころの友伝道全国大会に、アンデレ会の兄姉と共に参加しました。
講師の山北宣久先生(東京・聖ヶ丘教会牧師)より、ユーモアに溢れた二つの講演を伺いました。それは祝福される教会形成の急所を突いていました。今回は第一講演より三つのことを分かち合います。

  ★   ★   ★

  「こころ」を巡って
「こころの友伝道」。「こころ」が入っているのに惹かれました。こころは中心、すべてが集中されるところです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6・21)と主イエスは言われました。心は病むことがある。エレミヤは預言しました。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ17・9)
 ですから、変わるべきは心です。心病む人の友となり、癒してくださる主の前に共に出ることです。「心が変われば行動が変わる。行動が変われば環境が変わる。環境が変われば人格が変わる。人格が変われば人生が変わる。」そういう行動のために悔い改める(メタノイア)ことです。いかに愛がない時代に生きているか。愛で始め、愛で完成させましょう。「愛のためにメタノイア」がわたしたちの合言葉です。

  祈り祈られつつ
教会に来られない人がいます。そういう人が教会を支えているのです。わたしたちは目に見えるところで判断しやすいけれども、そうではない。その人が教会に連なっているということが大事であって、祈りという奉仕があります。ですから、教会は、行きたくても来られない人がいくらいても、その人たちが祈っていてくれれば生き生きしている。その代わり、来られるのに来ない人が増えてくると教会は衰弱します。祈り祈られつつ教会形成するのです。祝福とは目に見えるところだけで判断してはいけないのです。教会は逆ピラミッド、天上の礼拝の下にあるわたしたちですから、一喜一憂しないことです。教会は「召されたる者の集い」です。集められているとは、雄大な広がりの中にあることです。

  主が求める人
 「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。」(イザヤ59・16) 
執り成す人がいないので主が驚かれたのです。執り成す人が必要なのです。執り成す人がいれば、祝福された教会になるのです。
 祭司として執り成すことが特に必要だと思っています。旧約の時代、祭司はエフォドと胸当て(チョッキのようなもの)をつけました。そこにはイスラエル12部族の名が記されていました。その名を肩に担い、胸に抱くということです。そのことから、胸が焼けるような思いをもって、名を上げてとりなし祈ることがわたしたちに求められていると思います。執り成しの祈りが教会を教会にするのです。

トップページに戻る西川口だよりに戻る