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2008年 11月 1日発行 No.485
おびただしい証人の群れに囲まれて
金田 佐久子
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ12・1〜2)
「死んだ人は最高のカウンセラーです」。思いがけない言葉としてわたしは聞きました。数年来継続しているキリスト教カウンセリングの講義での一コマです。なぜそう言えるのでしょうか。生きている人は話を最後まで聞かずに助言したがりますが、死者はこちらの言うことを黙って聞いていてくれます。そして、こちらの心の奥底にある思いを引き出し、押し出し、導いてくれます。そんなユーモアまじりの説き明かしに「なるほど」と思い、初めの驚きと共に心にとどまる言葉となりました。
長い教会の歴史の中で11月1日は「諸聖人の日」すなわち「すべての聖人と地上の生を終えて今は神のもとにおられるすべての人を記念する日」とされてきました。カトリック教会から分かれたプロテスタント教会では、宗教改革者によって基本的に聖人崇敬が廃止されたため、諸聖人の日は召天者を記念する意味合いが強くなりました。
日本基督教団の行事暦では、11月の第一主日が「聖徒の日」と定められています。
西川口教会ではこの日、先に天に召された教会員とそのご家族・関係者を記念して、「召天者合同記念礼拝」をささげ続けてきました。この礼拝で記念するのは牧師が葬儀の司式した逝去者が主です。しかしその方々だけでなく大切な人を亡くされた方もいらっしゃいます。その方々にも慰めがありますよう、思いを合わせて礼拝いたします。
それと共に、冒頭に書きましたように、先に天に召された方々とわたしたちの関わりは、今なお続いていることを覚えたいのです。
先に召された人々は過ちがなく失敗がなかったわけではありません。ただ信仰によって神に認められて生きて死にました。一人ひとりが神のまなざしのもとで、神の御手の中で生きて死にました。その証人としてわたしたちを取り囲んでくれているのです。人は他人に代わって生きることも、他の人が自分の代わりに生きることもできません。自分に定められている競走を走らなければなりません。先に召された神の証人たちは、わたしたちを囲みその競走を応援してくれます。余計な荷物を持って走ることはできません。ですからわたしたちはすべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて身軽になります。独りで走るのではありません。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、走るのです。
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