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2009年 11月 1日発行 No.497
教会・礼拝・死と命
金田 佐久子
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ
11:25)
先日ある方から「どうして教会の人たちは毎週礼拝に行くのか」と聞かれました。この質問の言い方を少し変えてみましょう。「どうして教会は毎週礼拝をしているのか」。
教会とは、神に選ばれた者たちであり、キリスト者の集まりです。キリスト者は、昔から朝早く礼拝をしてきました。それは、主イエス・キリストの復活の出来事が週の初めの日の朝に起こったからです。教会が生まれて比較的早いうちに、週の初めの日を「主の日」と呼んで礼拝をするようになりました。
旧約聖書に示される律法によれば、神は、週の第7の日を安息日として定め、神を礼拝する聖なる日とするよう命じられました。その安息日の意義を受け継ぎながら、キリストの教会は礼拝を日曜日の朝にするようになりました。キリストがこの日の朝に復活されたことを思い起こし、自分たちもキリストの復活の命に与っていることを喜んで礼拝をしています。ですから、キリスト者は毎週礼拝をささげているのです。この喜びに一人でも多くの方に入っていただきたいので、礼拝にお誘いしますし、教会の礼拝はだれにでも開かれているのです。
このようにして主の日ごとの礼拝に集う者たちは、キリストの復活の命の中で、自分自身が死ぬべき存在であることを深く自覚することになります。聖書が告げる人の死とは滅びであり、わたしの存在が無になることです。恐ろしいことです。愛する者の死も同様にわたしを恐れさせます。キリスト者はどうして死を深く自覚し、見つめることができるのでしょうか。
聖書は、死後わたしたちがどうなるかについてあまり語っていません。何よりも主イエス・キリストを語ります。死と復活によって勝利されたキリストを語ります。キリスト者は、キリストのものとされた者たちです。キリストの勝利にあやかれるという恵みをいただいた人々です。罪が招かざるを得なかった滅びの死に定められていたにも関わらず、罪を赦されてキリストの復活の命をいただくという恵みです。この神の大きな恵みの中で、恐れから解き放たれて、自らの死を見つめ、死に備えて生きることも可能となります。キリスト者の地上の生活も必ず終りを迎えますが、復活する希望を持っています。キリストの命を分けていただいていますから、死に勝つ望みに励まされて、今日という日を主に従って生きていきます。
11月の第一日曜は、召天者合同記念礼拝です。信仰の先輩方のなつかしいお姿を偲びながら、地上の歩みを終えた者たちも、なお歩んでいる者たちも、共に復活のキリストに担われ、支えられていることを感謝し、主をほめたたえます。
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