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2010年 8月 1日発行 No506 

祈りについて

                            金田 佐久子

 だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ・・・」(マタイ 6・9)

 教会と祈りとは切り離せないものです。キリストの教会は祈りの共同体です。祈ることによってわたしたちは共に生きることができます。教会は祈ることをやめません。そして、どんな人とも一緒に祈ることができます。教会の兄姉は祈りの仲間です。子供たちも祈りの仲間とされていきます。
 わたしは子供の頃小学生になる前から、西川口教会に通うようになりました。40年ほど前のことでした。キリスト者であった母が、姉とわたしと妹を、西川口教会の教会学校に連れていってくれました。母は教会から離れていましたので、わたしにとって、神を礼拝すること、賛美すること、祈ることは西川口教会の教会学校で教えられ、体験によって身についたといえるでしょう。
 小学生の4年生か5年生の頃だったと思います。祈りについて忘れられない出来事がありました。現在もそうですが、子供の礼拝の後、分級(年代別学年別のグループ)の活動がありました。分級は祈りに始まり、祈りに終わることが常でした。その祈りは担当スタッフがすることもありましたし、子供も祈ることがありました。あるとき祈った後で、スタッフがわたしの祈りをほめてくださったことがありました。「金田さんのお祈りはよかった。神様への感謝があり、神様へのお願いがあり、またとりなしがあった。祈りの内容が一つ一つ入って、とてもよかった」。ところが、ほめてもらったのに、それを聞いたわたしは後ろめたくなりました。なぜかというと「そうではない。それは、口先だけだった、心からの祈りではなかった、そのほめ言葉にふさわしい祈りではなかった」と思ったからでした。とっさにそのように思い、恥じ入った自分を覚えています。何を祈ったか、何と答えたかはもう覚えていません。思いがけないほめ言葉と、引き起こされた自分の反応を覚えています。スタッフの先生は知らなくても、自分は知っている、そして神様も知っている、子供ながらもそう感じたのだろうと思います。
 神を呼び求め、祈ること、それは幼い子供でもできます。子供は大人のまねをすることから祈りを学び、身につけます。子供の頃のわたしもそうでした。教会を通して子供が祈りの言葉を教えられ、促されてではあっても祈れるようにしてくれました。それは子供にとっても、大きな力、支えとなります。しかし口先だけの祈り、むなしい祈りに陥らないためにどうすればよいのでしょう。子供のわたしが体験したことも、言葉では神に向かっているようでも、そうではなかったということです。
 教会の改革者ジャン・カルヴァンは「祈りとは、自分の外に出て行くこと、キリストのところに赴いて、主が教えられた祈りを口にすることだ」と語りました。
 主イエス・キリストの名によって父なる神を呼び、祈れることが、人に与えられた大きな恵みです。主イエスが祈ることを教えてくださいました。「主の祈り」を祈ります。確かにわたしたちは、聖書なくして祈れないのです。主の祈りも聖書の言葉です。神の言葉である聖書の言葉を口にして祈り始める。今日という日、祈ります。わたしたちの祈りに神は耳を傾けてくださっています。

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