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2012年 10月 1日発行 No532 

愛によって仕えるための自由

                            金田 佐久子

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5・13)

 わたしたちプロテスタント教会に生きる者たちにとって、10月31日の宗教改革記念日は大切な日です。
 ローマ・カトリックの修道士であったマルティン・ルターは、1517年10月31日、ヴィッテンベルク城で、当時のローマ・カトリック教会あてに質問状を出しました。これは神学的な問題を問う質問状だったのですが、このことがきっかけで大きな騒ぎになり、彼は宗教改革の担い手とされていきます。ルターは聖書に書いてあることを忠実にしようとしただけでした。当時の教会がしようとしたことが、聖書からだいぶかけ離れていたからです。
 ルターは神の義を発見したと言われます。彼がどうしても修道生活では確信を得られなかったもの、つまり、わたしの罪がキリストによって赦される、すなわち神の義を発見しました。それは信仰によって与えられる神の恵みです。「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」と語られているとおりです。
 3年ほど前に、ある先生の講演を聞き、ルターについての認識を新たにしました。宗教改革によってプロテスタントとカトリックでは違う生活を始めたと大ざっぱに言われますが(わたしもそう思っていました)、そうではなく、ルターは死ぬまで、毎日聖書を読み、黙想する生活をしました。修道院を出て修道士ではなくなったけれども、死ぬまで修道生活を続けました。ルターは、一人ひとりがそのように生き、皆が神の愛を感じ、分かち合う、仕え合う。つまり壁を取った修道院、そういう社会を作ろうとしました。そこでは、一人ひとりが隣人に対して責任を負っているということなのです。これが「万人祭司」が意味するところであると知りました。
 ルターは、「自由とは愛という言葉の関連なしはありえない。自由とは自分のためにではなく、他者のために使う。他者のために使う自由がある」ということを言っています。信仰によって得たすべての束縛からの解放は、愛によって仕えるための自由となります。神から受けているものを神に返すことです。
 
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