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2020年10月1日発行 No.628 

「わたしはある。わたしはあるという者だ」

                            金田 佐久子

 今年の6月17日から祈祷会で出エジプト記を少しずつ学んでいます。祈祷会の学びでは、始めに私が20分ほど解説をして、その後皆で15分ほどディスカッションをしています。有名な映画「十戒」の話が出たり、モーセと対決するエジプトの王の頑固さに「人間は今も昔も変わらない」とコメントしたりと、気づかされたことを分かち合っています。
 出エジプト記には、モーセによってイスラエルの民がエジプトを脱出し、シナイ山で神と契約を交わして律法を授与されたことなどが描かれています。家族単位の共同体だった創世記とは異なり、出エジプト記からは神を結び目とする共同体の話になることも特徴です。
 出エジプト記第3章には、神がモーセを召し出す出来事が次のように記されています。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。…見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 モーセは神に尋ねた。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた。(出エジプト3・7〜14)

 「わたしはある。わたしはあるという者だ」。何という不思議な響きでしょう。以前使っていた口語訳聖書では「わたしは、有って有る者」。最新の聖書協会共同訳は「私はいる、という者である」。ヘブライ語原文には「者」に相当する名詞はありません。欽定訳の現代英語改訂版では「I AM WHO I AM.」です。神の名は固有名詞ではありません。文章なのです。「わたしはある」。ここに神の御意志があり、決断があります。その御意志は出来事となります。ご自分の民のエジプトの束縛からの解放です。神は、民の苦しみを見、民の叫び声を聞き、痛みを知り、その苦境を見過ごすことはおできにならないのです。救いのためモーセを遣わし、民と共に生きて働く神としてご自身を明らかにされました。
 エジプトに象徴される束縛は、天地を造られた神の創造の秩序に反する事態です。ですから「わたしはある」という神の名は、苦しむ人にとって希望となります。神は本来あるべき解放と自由を与えてくださるからです。神はモーセに約束されたように「わたしは必ずあなたと共にいる」と私たちに言われます。信仰とは、この「わたしはある」という神の名によって生きようと決断することです。

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