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2022年8月1日発行 No.650
生きていることは奇跡
金田 佐久子
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14・27)
今年の春から川口がん哲学カフェいずみに参加してくださっているOさんが「カフェで紹介したい」と新聞記事をメールで送ってくださいました。宇宙飛行士の野口聡一さんへのインタビュー記事でした。
“…「宇宙は基本的には死の世界。生きていることは奇跡だと感じた」と語り、三回の飛行体験を含む四半世紀のキャリアを静かに振り返った。「手を離せば無の世界に行ってしまう」。…星すら見えない暗闇に、恐怖を覚えたという。だが、まばゆい輝きのISS(国際宇宙ステーション)と地球があった。…海や雲が移り変わり、多彩な表情を見せる水の惑星。…死が満ちる空間に同居する生の世界。「現代社会は生の感覚が満ちていて、死の恐怖はほとんどない。放っておくと自分は死ぬという状況で、命を続けることがいかに大変かを認識できる」。…(2022年6月12日)”
興味を持って検索をしましたら、野口さんの昨年秋のインタビュー記事を見つけ「生と死の『境界点』」という言葉にも出会いました。
“〔船外活動の時〕命ある文明社会とつながっているのがぼくの左手だけだと実感しました。…〔―「生と死の境界線」にいるというわけですか〕。指先だけで手すりとつながっているから、正確には『境界点』とも言えます。…”
宇宙飛行士は科学技術者として、安全第一で任務を遂行されますが、生と死の『境界点』に身を置いたときには、人格に深く語りかけられる経験をされるのだと思いました。
記事を読んで「現代社会は生の感覚が満ちていて、死の恐怖はほとんどない」には、ある面では同意しましたが、「死の恐怖を感じている人は少なくはない」とも思いました。野口さんがお語りになりたいことも、本来、命は当然ではなく、続けるのが大変ということだと思います。
月に一度の「マナの会」では、分かち合いの後で、加藤常昭著「慰めのコイノーニア 牧師と信徒が共に学ぶ牧会学」を少しずつ学んでいます。先月のマナの会では、次の言葉を聞き、問われました。
“…あるドイツの神学者が、現代の偶像、それは〈健康〉であると書いていました。ひたすら健康であろうとします。健康であることがしあわせの絶対条件のようになっています。それだけに、それでも病気になってしまうと、ひどく惨めな思いになります。生きることに失敗したかとさえ思い込みます。あるいはアンチ・エイジングという言葉が魅力を発揮しています。老化に逆らう技術を磨きます。しかし、私のような老人は、いかに若そうに見えても確実に老衰への道を歩んでいます。すべての反抗も空しく、やがて年老い、衰えて死を迎えます。”
がん哲学カフェを続けて開催しているのも、自分や家族や友が、望まない「がん」という病を得たことで、どう生きるのかを考えるひとときを提供したいからです。
先ほどの本の続きです。
“本当の慰めは、人としての弱さ、苦しみに耐えさせ、死においても望みを与えるのです。それは何かと、〔ハイデルベルク〕信仰問答は問うのです。…慰めとは何でしょうか。”
私たちが、キリストのものであること。この世が与えることのできない平和を与えてくださるキリストのものであることです。
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