2025年1月1日発行 No.679
イエス・キリストが愛してくださったように
金田 佐久子
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昨年、祈りの内に、2025年の西川口教会の御言葉を与えられました。イエス・キリストの言葉です。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。
ヨハネによる福音書と深い関係にあるのが、ヨハネの手紙一です。第4章にこうあります。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。…わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(ヨハネ一4・9~11)。
互いに愛し合って生きるよう招かれている私たちです。では、その愛はどこから来るのか。「わたし〔主イエス〕があなたがた〔弟子たち・私たち〕を愛したように」が肝心なのではないか、イエスの愛を私たち一人ひとりが豊かに受けていくことから、互いに愛し合う関わりへ押し出されると思うのです。「神(御子・主イエス)」と「自分」と「他者」との関係が問われています。
私たちの多くが、キリスト者であっても、人間関係の悩みを抱えています。思い通りにならないと苛立ち、自分が踏みにじられたと感じていることが少なくありません。「ノー」が言えなくて自分で自分を息苦しくしている現実があります。互いの責任を明確にするより、自分が我慢をすればいいんだと思い込んで、事態が良くならないこともあります。愛すると言いながら、空しい思い、苦々しい思いに捕らわれていることがあります。神と自分との関係は本当に健全なのか、「イエスによって生きるようになる」とは、どういうことなのか、問われます。
このように思い巡らしているとき、『境界線(バウンダリーズ) 実を結ぶ人生のための「はい」と「いいえ」の使い方』(ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント著、地引網出版)を思い出し、久しぶりに手に取ってみました。
「境界線(バウンダリー)」とは、自分の責任と他人の責任の領域の境界線のことです。自分がどういう人間であり、どういう人間ではないのか、境界線により定まるというのです。次の4つがあります。 ①身体的境界線(他者が自分の体に触れることが許される条件を明確にする)②精神的境界線(自分自身の考えや意見を持つ自由を与える) ③感情的境界線(自分の感情に対処し、他人の操作的な感情から自由になるよう助ける) ④霊的境界線(神の御心と自分自身の意志を見分けるのを助ける)。境界線は私たちの生活全般に関わってくるものです。本には「愛に満ち、献身的で、満たされた個人でいることは、あなたを造られた神の望まれるところです。健全な境界線が、そのような人生を歩む自由をいかにして与えてくれるのか、あなたも身をもって学ぶことでしょう」とありました。
イエスを見つめてみます。イエスは父なる神に祈るために、人々を離れて退かれました。そのとき人々は面白くなかったかもしれませんが、イエスは人々の感情に対して責任を取ろうとはなさいませんでした。御父との交わりでイエスは愛を受け、自分の行くべき道を確認されました。イエスは「仕えられるためではなく仕えるために来た」と言われましたが、人の言いなりにはなりませんでした。イエスは、全く自由に、愛と責任をもって、時に適って為すべきことを果たされました。
イエスはどのように私たちを愛してくださったか、改めて、思い巡らしたいと思います。