2024年5月5日(日) 復活節6主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   543
主の祈り
交読詩編  詩編149篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第1章1~13節
説  教  「イエスはまことの光」
賛  美   502
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 本日は、ヨハネによる福音書の説教の2回めになります。先週の説教で「言(ことば)」はイエス・キリストを指すと申しました。ですから、「言」のところを「キリスト」と入れて読み替えてもよいのです。キリストは初めからおられた神であり、全てのものはキリストによって存在しています。天地も、歴史も、私たちも、キリストぬきに存在してはおりません。キリストは、暗闇の中に輝く光です。しかし今はなお、暗闇が存在しています。その現実を聖書はしっかりと見つめています。
 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」(6節)。このヨハネとは「洗礼者ヨハネ」です。洗礼者ヨハネは、光であるキリストを証しするために神から遣わされました。キリストは、証しをする者を必要としています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。この光からもれる人はおりません。
 「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(10~11節)。ここでも、世が、キリストを拒否するという現実を聖書は見つめています。振り返ってみても、私自身、キリストの福音を聞いてすぐに信じることはできませんでした。しかし、キリストは世を見捨てることはなさいません。ご自身の救いへと招き続けてくださいます。だから私も救われました。なぜなら、神は世を愛しておられるからです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16~17)。
救われた者の喜び、キリスト者の喜びは、自分が神の子とされたこと、神を父と呼ぶことができることです。キリストは「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与え」てくださいました(12節)。私たちは神に造られた存在ですが、初めから神の子なのではありません。神の子となるのです。それは信仰により、神の恵みによるのです。
 12節の「資格」と訳された語は、口語訳聖書では「力」、新改訳2017では「特権」、聖書協会共同訳では「権能」と訳されています。どの意味も併せ持つ言葉です。もともとの意味は「あるものの外にいる」です。外にいるから自分は束縛されません。ですからそこから、相手を支配する「権威」という意味が生まれました。私たちは、世の支配から自由であり、神の子としてふさわしく生きるために、神の子となる力、権威、特権、資格が与えられています。この世はその資格を奪い取ることはできません。
 神の子となった人々は、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」のです(13節)。「血によって」とは血筋、「肉の欲」とは人の願いといえるでしょう。「人の欲」の「人」は直訳すると「男」です。ですから、血筋や人の願いや男の欲などによって神の子が生まれるのではありません。ただ神によって生まれるのです。神は、キリストを信じる人々を神の子としてくださるのです。
 この国で福音を宣教するとき、「キリストを信じないままで死んだ私の家族、私の友はどうなるのか」という問いに直面すると思います。「万物は言によって成った」(3節)のとおり、先に召された人々も、キリストによって造られた存在です。キリストがすべての人をご存じです。キリストは「陰府に下り」(使徒信条)、死者のところへも宣教されました(ペトロ一3:19)。ですから、すべてをキリストにお任せすればよいのです。