2024年6月16日(日) 聖霊降臨節第5主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   83
主の祈り
交読詩編  詩編86:11~17
祈  祷
賛  美   358
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第1章35~42節
説  教  「来なさい。そうすれば分かる」
賛  美   543
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 今日の聖書箇所で、いよいよ主イエスと弟子たちとの出会いが描かれます。私たちはイエスのお姿を見ます。主イエスと弟子たちとの出会いの出来事は、主イエスと私たち一人ひとりとの出会いが重なるような思いがします。
 「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」(35~36節)。これは「見よ、神の小羊だ」は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と同じ意味です。これがヨハネ福音書における洗礼者ヨハネの最後の言葉です。このあと洗礼者ヨハネは姿を消します。まさに自らを「荒れ野で叫ぶ『声』」と自らを語ったとおりでした(ヨハネ1:23)。「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(37節)。これが大切で、ヨハネの言葉を聞いて、二人の弟子はイエスに従いました。洗礼者ヨハネの言葉が二人の背中を押したかのようです。この後にもう一度「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人」(40節)と書かれています。彼らはイエスを見て従ったのではなく、師であるヨハネの言葉―それは「世の罪を取り除く神の小羊」という神の言葉―を聞いてイエスに従ったのです。
 主イエスは、二人がご自分に従ってくるのをご覧になりました。そして問われました。「何を求めているのか」。この言葉はヨハネ福音書で最初に語られた主イエスのお言葉です。イエスは私たちにも問いかけておられます。「あなたは何を求めているのか」。私たちは何を求めて、ここに来ているのでしょうか。
 イエスは、「私は神の子だ」とか「私は神の小羊だ」と言われませんでした。まず、弟子たちの願いを尋ねてくださいました。イエスは私たちの願い、私たちの心にある思いに関心を持っていてくださるのです。ここで二人は「どこに泊まっておられるのですか」(38節)と尋ね、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と答えられました。イエスは二人に言葉で説明するよりも、自分の目で、足で確かめるように招いてくださいました。
 ここで「泊まる」と訳された動詞(ギリシア語「メノー」)は、特に第15章で多く用いられ、そこでは「つながる」「とどまる」と訳されています。「ある具体的な場所にとどまる」という意味と、「教えや信仰など、ある状態にとどまる」という意味があります。二人は、初めはイエスが具体的にどこにいるかを知りたかったのかもしれません。しかしイエスと共に過ごして、本当にイエスが神から来られたメシア(キリスト)だと知りました。ですから、イエスのもとに本来の自分のあり方を見出し、そこから離れず、とどまることにしました。「午後四時ごろのことである」と時間が記録されていることから分かります。自分の人生に決定的な出会いがあったのです。この日、このとき、この人に出会った、という忘れがたい出会いを体験している人は多いと思います。
 イエスが神から来られた方であると本当に知った人は、それを自分だけにとどめることはできません。キリストの証人となります。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」(40節)と二人のうちの一人の名前が明かされます。アンデレは「まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア…に出会った」と言いました。(40節)。シモンをイエスのところに連れて行きました。キリストの証人が、キリストのもとに家族や友を連れて行きます。次にはその人がイエスと出会うのです。イエスはシモンに「ケファ」(岩という意味。ギリシア語で「ペトロ」)と新しい名を与えられました(マタイ16:18参照)。新しい名を与えられたとは、イエスと共に生きる新しい生活が始まったことを示しています。