2024年11月17日(日) 降誕前第6主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 148(1~4節)
主の祈り
交読詩編 詩編81:1~11
祈 祷
賛 美 194
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第6章22~35節
子ども説教
説 教 「イエスは命のパン」
賛 美 419
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
イエスが、五つのパンと二匹の魚を増やして、男だけで5千人の人々を満たされた後、人々から離れ、山に退かれました(ヨハネ6:15)。翌日、人々は、イエスも弟子たちもいないことが分かると、カファルナウムまでイエスを捜し求めてやって来ました(22~24節)。湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ〔先生〕、いつ、ここにおいでになったのですか」と言いました。私は人々のこの言葉に「私たちはこんなにあなたを求めています」という強い思いを感じます。イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われました(26節)。パンを増やしたのは、イエスが神から来られた方であることを示す「しるし」でしたが、人々の思いは、イエスを自分たちの望む王になってもらうことでした(ヨハネ6:15)。「この人がいれば、食べるに困らない。働かなくてもいいかもしれない」と思ったかもしれません。
イエスは言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(27節)。以前、大先輩の牧師が、この27節が、ご自分の献身の御言葉だと証ししてくださったことを覚えています。先生は北陸に遣わされ、牧師館が古くて隙間があったので、「雪が降った日、朝起きると、布団の上に雪が積もっていたんだよ」と明るく笑って話されていました。主イエスから「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とお声をかけられたと信じ、困難も喜んで従う姿に心打たれました。
27節はこのように言い換えることができます。「なくなる食べ物のための業は止めて、いつまでも残る永遠の命に至る食べ物のための業をしなさい」。人々は尋ねます。「神の業〔複数形〕を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)。イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業〔単数形〕である」と言われました(29節)。イエスを信じ、従うこと、それがただ一つの神の業であり、すべてであるのです。聖書では、信仰は「与えられるもの」で、信じることは神の業なのです。神の独り子であるイエスを世にお遣わしになった父なる神と、父なる神に従って世に来られた御子なる神と、聖霊によらなければ、イエスを主と信仰告白はできません(コリント一12:3)。三位一体の神によって私たちは信仰を得ているのです。
イエスの言葉を聞いた人々にまだ聖霊は降っていませんから、「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」と言いました(30~31節)。見て信じることができるように、と人々は言っていますが、ヨハネ福音書は「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と語っています。
イエスは答えられます。「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32~33節)。彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました。人々は、実際に口にするパンのことを思って、言っています。けれども、イエスは霊的な意味でおっしゃったのです。イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。本当の意味で、人を生かすものは、イエスご自身であり、イエスの言葉であり、イエスの救いの御業なのです。