2024年12月1日(日) 降誕前第4主日・アドベント第1主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 242(1節)
主の祈り
交読詩編 詩編86:11~17
祈 祷
賛 美 234
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第6章34~51節
子ども説教
説 教 「引き寄せてくださる神」
賛 美 390
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
本日からアドベント(待降節)。クリスマスに備える日々が始まりました。クリスマスは、神の御子がこの世にお生まれになられたお祝いです。
本日の聖書箇所で、イエスが何のためにこの世にお生まれになったのか、この世に来てくださったか、イエスご自身が語っておられます。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(38節)。イエスは、自分勝手に、自分の思いどおりにするために来たのではなく、私をお遣わしになった天の父なる神の御心(思い)を行うために来たのだ、と言っておられます。ではその父の御心とは何でしょう。「(父の)御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること」です(39節)。何とうれしい言葉でしょうか。神は、私たちを一人も失わないように、と願っておられます。そのために、主イエスを世に遣わしてくださいました。だから、私たちは、決して失われることはありません。アドベントは、再び来られるイエスをいっそう待ち望む期間でもあります。「終わりの日に」とは、イエスが再び来られて、救いを完成してくださる時のことです。そのときには、私たちは体ごとの復活に与かります。その希望の約束をいただいています。
ヨハネ福音書第6章は長いので、数回に分けて説教をしてきました。特に、湖の上を歩かれた主イエスのお言葉「わたしだ」(20節)が、6章全体に(ヨハネ福音書全体にも)響き渡っていることを心に留めていただきたいと思います。これはイエスご自身が「わたしである」〔出エジプト3:14参照〕というお方であること、つまり、神ご自身であることを示しています。
第6章の始まりは、イエスが湖のほとりで、パンと魚を分けて増やし、男だけで5千人もの人々を満腹させてくださった出来事でした(ヨハネ6:10~11)。満たされた人々の中には、イエスと一緒なら食うに困らないから、王にしようと考えた人もいました(ヨハネ6:15)。イエスは人々から離れて行かれましたが、人々がイエスを追いかけてカファルナウムまでやって来ました。
本日の聖書箇所は、その人々とイエスの対話の続きです。追いかけて来た人々は、ひたすら食べ物のパンのことを考えています。ですからイエスが、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(ヨハネ6:33)と言うと、彼らは、そんなパンがあればどんなにいいだろうと考え、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました(34節)。するとイエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。これは霊的な意味で語っておられるのです。決して食べ物がどうでもいいのではありません。私たちは、食べ物も、命も与えてくださる方を知らなければならないのです。
聞いていた人々のなかに、イエスの家族のことを知っている人がいて、つぶやいて言いました。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と(42節)。イエスはお答えになりました。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」(43~44節)。イエスのもとに集められているとは、父なる神が引き寄せてくださっているからだということ。私たちが、礼拝で、こうしてイエスの言葉を聞いているのも、父なる神の御業なのです。イエスの言葉によってそれを知りました。