2024年12月15日(日) 降誕前第2主日・アドベント第3主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   242(1~3節)
主の祈り
交読詩編  詩編46篇
祈  祷
賛  美   244
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第6章60~71節
子ども説教
説  教  「主イエスと共に歩む」
賛  美   377
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 本日の聖書箇所には、主イエスの弟子ペトロの素晴らしい信仰告白の言葉があります。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(68~69節)。つまり、「私たちの行くところはあなた以外にありません。なぜなら、あなたは永遠の命の言葉を持っておられるからです。あなたの言葉は永遠の命、神の祝福の命を与える言葉です。その言葉を語ることができるのは、主イエスよ、あなただけです。あなたは神から来られた聖なる方です。その聖(きよ)さに私たちをあずからせてくださいます。私たちはそのことを信じています。だから私たちは、あなたのもとから離れません」。私たちも、このペトロの信仰の言葉に同意します。この言葉を心から言い表す人々の集まりが、教会なのです。
 この素晴らしいペトロの信仰の言葉は、闇の中に輝く光のような言葉です。というのは、主イエスを追いかけてやって来た人々がイエスの言葉を聞いて、腹を立ててつぶやいて、最後にはイエスから離れ去って行ったからです(66節)。初めは大勢の人々が、パンを増やして自分たちを満腹させてくれたイエスを追いかけてきましたが、ついにその人々は言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と(60節)。「こんな話」とはヨハネ福音書第6章で語られた「わたしは命のパンである」、「わたしは天から降って来た生きたパンである」、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」などのイエスの言葉でしょう。イエスは霊的な意味で語っておられたのですが、追いかけて来た人々は、自分たちの思い通りにイエスを動かして王にしようと考えていたので(ヨハネ6:15)、イエスがどのような思いでお語りになったのか理解しませんでした。そこに人間の闇を見ます。これは他人事ではないと思います。私たちが自分の思いに縛られているとき、神の言葉に対して、「聞いていられようか」とつぶやくことはないでしょうか。
 イエスは言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」(62節)。ヨハネ福音書で「上る」とは「十字架に上げられること」であり「天に上げられること」で二重の意味があります。「人の子」とはイエスご自身。やがてイエスは「わたしの父の家に…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と言われました(ヨハネ14:2~3)。イエスは、十字架に上げられ殺されることによって、私たち人間が天に向かう道をお開きになられます。「命を与えるのは“霊”である。肉〔人間の力〕は何の役にも立たない」(63節)。ただ神のみが一方的に救いの道を開き、永遠の命を与えてくださるのです。「霊」は「息吹」とも訳せます。神の霊の息吹に生かされれば、だれでも、主イエスの命に生きることができます。それは神の業です。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。イエスの言葉を聞いて、信じるとき、その人は神の霊の息吹に生かされています。
 「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65節)、また、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」(70節)というイエスの言葉は、教会において大切な「神の選び」の信仰の根拠です。一方で「その中の一人は悪魔だ」(70節)とイエスは言われました。選ばれた弟子たちも私たちも、イエスを裏切る可能性を持っています。弱い自分、罪深い自分を自覚しつつ、ペトロの信仰告白を自分たちの信仰告白として、聖霊に依り頼んで、今を生きるほかありません。