2024年12月29日(日) 降誕節第1主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   268
主の祈り
交読詩編  詩編22:1~12
祈  祷
賛  美   273
使徒信条
聖  書   フィリピの信徒への手紙第2章1~11節
子ども説教
説  教  「十字架につけられた主」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美   280
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)


〔説教要旨〕

 本日は、使徒信条の第2部(イエス・キリストを信ず)の『十字架につけられ』になります。まことに短い句ですが、キリストの十字架の出来事は、教会の信仰の根幹です。
 降誕節に入りましたので、本日の説教のために、フィリピの信徒への手紙第2章冒頭の箇所を選びました。6節から11節は讃美歌であったと言われて、「キリスト賛歌」と呼ばれています。
 6節から8節が、現代風にいえば「キリスト賛歌」の1節でしょう。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。9節から11節が、「キリスト賛歌」の2節となります。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。教会の礼拝は天上の礼拝の先取りです。
 フィリピの信徒への手紙は獄中からの手紙です。パウロは信仰によって捕らわれの身になっています。手紙を書いて出すことは許されたようです。パウロは、フィリピの教会の人々も知っている讃美歌を共に歌いたいと思ったのでしょう。賛美には力があります。賛美することで、共にキリストを仰ぐことができます。
 使徒言行録第16章には、パウロたちがフィリピの町で伝道した出来事が記されています。まず、ユダヤ人の祈りの場である川岸で福音を語ったところ、リディアが救われ、家族が救われました。その後、パウロたちは、あることから捕らわれ、鞭で打たれ、投獄されてしまいましたが、その夜、パウロとシラスは賛美の歌をうたっていました。囚人たちはそれを聞いていました。突然、大地震が起こり、囚人たちの鎖が外れましたが、誰も逃げませんでした。賛美の力でした。そのことを見た看守と家族が救われ、洗礼を受けました。フィリピの町に教会が生まれました。
 パウロは、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」(フィリピ1:29)と言います。パウロの苦しみは、キリストも共に苦しんでくださっている。だから、教会にも、パウロは、共に苦しみ、共に戦おうと呼びかけています。信仰の戦い、伝道の戦いを、十字架の主イエスを共に賛美し、仰ぎつつ、共に戦います。
 良い機会なので、主イエス・キリストの十字架の恵みをまとめてみます。
1.十字架は神の裁きであった。私たちの罪人としての姿が明らかになった。まことの悔い改めは十字架を凝視することから。
2.主イエスが私たちに代わって裁かれた。私たちを罪と死から守るために。私たちは既に罪を赦されていることを知る。
3.十字架によって、私たちは神との間に平和を得ている。神と和解させていただいた。もう、恐れることはない。
4.十字架によって、主イエスが悪魔に勝ってくださったことを知る。私たちは、その勝利にあやかっている。
5.十字架によって、私たちは自由を与えられた。それは、イエスのように生きるための自由であり、愛によって仕えるための自由である。自分の十字架を負って生きることである。
6.十字架は、神の愛の確かなしるしである。神の愛が分からないということは、もはや決してない。
7.愛の現れた主の十字架は、よみがえりの主の十字架である。だからこそ、今、私たちに命を与える力となる。