2025年1月5日(日) 降誕節第2主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 368
主の祈り
交読詩編 詩編75篇
祈 祷
賛 美 278
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第7章1~13節
子ども説教
説 教 「時は備えられている」
賛 美 412
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
〔説教要旨〕
「ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」(2節)とあります。仮庵祭(かりいおさい)はユダヤ教の三大祭りの一つです。後の二つの祭りは過越祭と七週祭ですが、過越祭はイースターに、七週祭(五旬祭)はペンテコステに関連づけられているので、この二つはご存知の方が多いと思います。仮庵祭は、太陽暦では9月終わりから10月上旬ころ行われる、秋の収穫のお祭りです。その起源はレビ記第23章に記されています。エジプトから救い出されたイスラエルの民が、荒れ野の旅の間、仮庵(仮小屋、天幕)に住んだことに由来しています。仮庵の祭りの間、民は仮庵に住んで、神に導き出されたことを記念するのです。イエスの時代には、祭りの間、毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物と共に祭壇に注ぐ行事が行われました。過越祭よりも盛大であったと考えられています。
新年、主の年2025年を迎え、今年は数年ぶりに、元旦礼拝を行いました。日本では、いつも、全国各地の大きな神社の初詣の人出が何万人などと報じられます。仮庵祭が盛んであったとは、大勢の人々が集まる初詣のようだったのかもしれません。大いに盛り上がり、勢いがあります。人々の心も高揚しています。
その仮庵祭が近づいたころ、主イエスは、ユダヤからは距離を置いて、ガリラヤで活動しておられました。そのイエスに、兄弟たちがこう言ったのです。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。…自分を世にはっきり示しなさい」(3~4節)。イエスの弟たちにも、イエスの評判は耳に入っていました。イエスが病人を癒したり、パンや魚を増やしたりした奇跡のことでしょう。「兄さん、あなたのしていることを、もっと大勢の人の前でやって見せたらいいではないか。そうしたら、世の中の人が兄さんのことを注目してもらえる。出世できる。人を集めることができる。事を起こすことができる。どうしてそうしないのか。どうしてひそかに行動しているのか。やってごらんなさい。きっと上手くいくから」ということです。ヨハネ福音書はこう言います。「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」(5節)。これは意外な言葉ではないでしょうか。兄弟たちは、イエスの奇跡を行う力を信じていたのではないでしょうか。しかし、ヨハネ福音書が語る「信じる」とは、弟たちが語っていることとは違うのです。
私は、この弟たちの言葉に、イエスが荒れ野で悪魔の誘惑を受けられた時の悪魔の言葉と同じ響きを感じました。マタイ福音書第4章によれば、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と言います。本当にたくさんの石がパンになったら、どんなにいいでしょう。そうしたら飢えた人が満たされ、イエスのもとに人々は集まるでしょう。悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。…」と言います。必ず天使があなたを支えるのだから、屋根から落ちても生きているから、人々が驚いて、あなたのところに注目して集まってくるはずだ、というわけです。
イエスは言われます「わたしの時はまだ来ていない」(6節)。「時」は神の時です。イエスが十字架に上げられて、神の栄光を現わされる時は、まだ先です。この言葉に、父なる神に徹底的に服従しておられるイエスの姿を見ます。神の独り子であるにもかかわらずイエスは「自分の思う通りのことを、いつでも好きな時にできる」とは言われません。一方「あなたがたの時はいつも備えられている」(6節)と言われます。父なる神は私たちに御顔を向けてくださり、いつでも立ち帰ることを待っていてくださる。私たちのための「時」は、いつも備えられているのです。