2025年1月12日(日) 降誕節第3主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 205
主の祈り
交読詩編 詩編119:1~8
祈 祷
賛 美 403
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第7章10~24節
子ども説教
説 教 「うわべだけで裁くな」
賛 美 438
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
礼拝音声は聖餐部分をカットしています
〔説教要旨〕
本日の説教題は、24節の御言葉から決めました。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(24節)。イエス・キリストの言葉です。私たちも「うわべだけで判断しないでください」と思うことがあるのではないでしょうか。親しい間柄であっても、例えば、親子や夫婦、きょうだいや友だちに対して、「うわべだけ見ただけで自分のことを決めつけないでほしい」と感じたことがあると思います。
イエスがこの言葉を語られた相手は、エルサレムの人々です。イエスは仮庵祭のためにエルサレムに上って、祭りの半ばになったころ、神殿の境内で教え始められました。その言葉を聞いてつぶやいた人々にお答えになったのです。イエスは言われました。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている」(21節)。この「一つの業」とは、ヨハネ福音書第5章冒頭の出来事です。ベトザタの池のほとりに、38年も病気で苦しんでいた人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」とイエスが言われると、その通りになりました。その日は安息日でした(ヨハネ5:5~9)。安息日は週の第7の日で、神を礼拝するための日として定められ、そのために仕事をしてはいけないとされていました。ですから、イエスがなさったいやしも、安息日にしてはならないことであり、エルサレムのユダヤ教の指導者の中には、安息日の律法を破るイエスはとんでもない人間、神を畏れず、神を冒瀆していると考え、このままにしておいてはいけないと、殺意まで抱く人もおりました(ヨハネ5:18、7:1)。
イエスはその人たちに続けて言われました。「モーセはあなたたちに割礼を命じた。…だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している」(22節)。ユダヤ人の男子は生後8日目に割礼を受けました。割礼は、アブラハムの時代から定められたもので、体の一部に傷をつけ、神の民の一員であるしるしとしました。イエスの時代には、生後8日目が安息日であっても割礼は施されました。なぜでしょうか。割礼は、神によって選ばれた民の一員であるしるしです。ですから神の祝福からもれることがないように、安息日の律法より割礼が優先されていて、当然のこととしていました。それをイエスは引き合いに出されたのです。「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか」(23節)。イエスのいやしは全身のいやしでした。全身ばかりではなく、神から見放され神の祝福から遠いと思われた人が、共同体に復帰できた回復でもありました。イエスはこの人をいやし、祝福へと招き入れてくださったのです。それなのに、そのことで腹を立てるというのか、というわけです。そこで「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」(24節)と言われました。
これは、私たち一人ひとりに主イエスが言っておられるのです。「あなたはどうなのか」と。私たちは他の人に「うわべだけで決めつけないでほしい」と言いたいことが多いと思いますが、自分自身、人をうわべだけで裁いていないかどうか、問われています。イエスは「正しい裁きをしなさい」と言っておられます。どうしたらできるでしょう。
イエスにならい、父なる神に聴くことです。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。…自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」(16、18節)。父なる神に徹底的に従って生き抜かれた主イエス。イエスを遣わしてくださった神の御言葉をへりくだって聴くことから始まります。