2025年3月30日(日) 復活前第3主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   16
主の祈り
交読詩編  詩編51:12~19
祈  祷
賛  美   197
使徒信条
聖  書   マルコによる福音書第14章66~第15章5節
子ども説教
説  教  「打ち砕かれ悔いる心」
賛  美   530
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を いなみたる よわきペトロをかえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。」(讃美歌21-197 2節)。ペトロがイエスを知らないと言ったとき、ルカ福音書では、ペトロを見つめられたイエスのお姿が記されています。「ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:60~61)。このときの主イエスのまなざしはどのようなまなざしだったでしょう。ペトロを責めるものではなかったと思います。「分かっていたよ。あなたが『私を知らない』と言うことを、私は分かっていたんだよ」という赦しのまなざしではなかったか、と思うのです。鶏の鳴き声によって、イエスの言葉を思い出したペトロは、外に出て激しく泣きました(72節)。
 先ほど交読詩編第51篇を通して祈りました。このペトロの姿を思ってのことです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。イエスに対して取り返しのつかないことをしてしまった私。その私をイエスは既にご存じであった…。ペトロは人間を代表しているのです。ペトロは私。私はペトロ。
 福音書の文脈では、ペトロの再生には、もうしばらくの時間が必要です。十字架に死んで葬られたイエスが復活され、恐れていた弟子たちを訪れ、ペトロに語りかけ、弟子として立たせてくださいました。イエスが昇天された後、聖霊が弟子たちに降り、ペトロは力を受けて、大胆にイエスがキリストであると宣べ伝えました(使徒言行録第2章など)。4つの福音書すべてに、ペトロがイエスを3度知らないと言ったことが記されているのは、恐らくペトロが話したからです。「このようなことをした私を、イエスはご存じで、愛し、赦して、再び弟子として受け入れ、立たせてくださった。私が赦されたのだから、あなたも赦される。あなたも救われる」と説教したからでしょう。
 イエスが最高法院で裁かれている時、ペトロは大祭司の屋敷の中庭で火にあたっていました。そこで、大祭司に仕える一人の女中にこう言われました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」(67節)。大人の読者である私たちは、福音書が書かれた時代や初代教会についても理解したいと思います。当時「イエス」(旧約聖書では「ヨシュア」)という名はありふれた名でありました。区別するために主イエスは「ナザレのイエス」と呼ばれていました。使徒言行録で、パウロが「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者」だと訴えられる出来事が記されています(使徒24:5)。初代教会の人々は、ユダヤ人からこのように敵視され、迫害されていました。教会は、「あのナザレのイエスと一緒にいる」人々の集まりなのです。あのとき、ペトロはそれを否定したのです。ペトロにとって、律法学者やファリサイ派の人々の悪意の問いに、彼らが返す言葉もないほどにイエスが見事に答えて、人々から称賛されているときには、「イエスと一緒いる」ことが誇らしかったかもしれません。けれども、ユダヤ当局の人々にあっさりと捕らえられ、裁かれ、侮辱され、十字架に上げられるイエスと一緒にいることは、そのときのペトロには、とうてい受け入れられなかったのかもしれません。私たちはどうなのでしょう。私たちの目に適う主に従うのでしょうか。そうではありません。なぜなら、十字架のイエスにこそ、かけがえのない救いがあるからです。私たちのために呪いとなり、罪の贖いとなり、身代わりとして罪の裁きを受けられたイエスの十字架がなければ、私たちの救いはありません。