2025年12月14日(日) 降誕前第2主日・アドベント第3主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   242(1~3節)
主の祈り
交読詩編  詩編24篇
祈  祷   
賛  美   237
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第1章6~9節
説  教  「光の証人として」
賛  美   405
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 今日は、洗礼者ヨハネに注目して、御言葉に聴きたいと思います。ヨハネ福音書第1章1節から18節までは、この福音書の「序」の部分であり、神の次元、究極的な事柄が述べられています。その「序」において、イエスのお名前よりも前に、洗礼者ヨハネが登場していることは、ヨハネの存在がいかに重く尊いものであるかを示しています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」(6~7節)。洗礼者ヨハネは、光である主を証しするために神に選ばれ派遣されました。ヨハネを通して、イエスがキリストであると私たちが信じることができるようになるためです。
 マルコ福音書第1章を見ると、洗礼者ヨハネの出来事はイザヤ書の預言の成就であったことが分かります。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう』」(マルコ1:2)。洗礼者ヨハネはイエスに先立つ存在、イエスの前触れでした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(マルコ1:3)。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者」でありました。荒れ野は寂しいところです。神殿のある都エルサレムとは違います。人を寄せつけないところです。同時に、荒れ野は神の声が響くところ、神とお出会いするところです。洗礼者ヨハネの言葉に心打たれた人々が大勢、荒れ野のヨハネのもとに来て、彼から洗礼を受けました(マルコ1:4~5)。ヨハネは預言者エリヤと同じいでたちでした(マルコ1:6)。「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」とヨハネは言いました(マルコ1:7)。履物のひもを解くことは奴隷の仕事でしたから、ヨハネは「自分は奴隷以下で、救い主に近づくことさえあり得ない者である」と、へりくだっていました。洗礼者ヨハネのような謙遜に、私たちは生きているでしょうか。
 イエスは、この洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったのです。イエスは何の罪もない御方なのに、罪ある人と同じようになって、ヨハネから洗礼をお受けになりました。それが神の良しとされることだったからです(マタイ3:15参照)。ヨハネの使命はイエスに洗礼を授けることでもありました(ヨハネ1:31参照)。
 イエスは、後に、洗礼者ヨハネについてこう言われました。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11前半)。「女から生まれた者」とは人間のことですから、洗礼者ヨハネはだれよりも偉大だったということです。ただし、イエスは続けてこう言われました。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11:11後半)。洗礼者ヨハネのようにへりくだることも知らない私です。しかし、イエス・キリストを信じて救われ、神の国に入れていただきました。キリストの救いを受けた者たちは洗礼者ヨハネより偉大である。つまりイエスの救いは、神からのまったくの一方的な恵みだということです。
 洗礼者ヨハネは、その死においても、イエスに先立つ存在でした。ヨハネは、領主ヘロデに捕らえられ、殺されました。この世の権力はヨハネを死に追いやりました。やがて、イエスも同様にこの世の権力によって死に追いやられました。実はそのことも神のご計画でした。洗礼者ヨハネはイエスを指し示して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。イエスは、命まで取られるほどに、ご自分の身に世の罪を負われることで、私たちの罪を取り除いてくださる。救われた私たちは、洗礼者ヨハネと共に、光の主の証人とされています。