2026年1月18日(日) 降誕節第4主日
礼拝順序〔埼玉地区講壇交換礼拝〕

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   351
主の祈り
交読詩編  詩編46:1~8
祈  祷   
賛  美   226
使徒信条
聖  書   エフェソの信徒への手紙第4章1~6節
説  教  「神はおられる」
        〔説教者 澁谷弘祐牧師(久美愛教会)〕
賛  美   465
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 教会が歩みを続けていく中で、私たちはしばしば「これから先、どうなるのだろうか」と考えます。人数のこと、年齢のこと、次の世代のこと。目に見える現実が、私たちの心を重くすることもあります。しかし今日、与えられている聖書の言葉は、まず私たちの視線を、そうした現実から神ご自身へと向け直します。
 主イエスは福音書の中で、こう言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしは柔和で謙遜な者である。」
(マタイによる福音書 第11章28~29節)
 主イエスは、力のある者、余裕のある者だけを招かれたのではありません。疲れた者、重荷を負う者を、ご自身のもとへと招かれました。ここに、私たちの信仰の出発点があります。教会の歩みも、地区の歩みも、私たちの生活も、余裕のあるときにだけ成り立つものではありません。むしろ、重荷を感じるときにこそ、主の招きが響いています。
 「柔和で謙遜な者」はキリストに倣う人です。そして主イエスご自身の姿に結ばれた生き方でもあります。エフェソの信徒への手紙4章1節で、パウロは自分を「囚人」と呼びます。キリストに結ばれた囚人として、低いところから語っているのです。ですからパウロは教師や使徒として、権威ある立場から語っているのではありません。このパウロの謙遜を通して、一致は、上からの命令ではなく、十字架に結ばれたイエスの呼びかけに応えた者となるためであると分かります。
 この一致は、決して勢いで作り出すものではありません。「柔和、寛容の心で、愛をもって互いに忍耐しなさい」。と続きます。これらは、華やかな言葉ではなく、時間がかかり、時にしんどく、報われないように見える生き方です。しかしパウロは、ここに一致の現実があると言います。
この一致で主イエスに結ばれた者となった私たち。その私たちが「柔和・謙遜・忍耐」を持つ意味は何でしょうか? 柔和とは、弱さではありません。それはイエスが示した姿勢です。寛容とは、あきらめではありません。それは十字架に至るまで人を受け入れられたイエスのあり方です。忍耐とは、我慢ではありません。それは復活の希望を信じて待ち続けたイエスの信仰です。これら三つは、自分の力で得るのではなく、イエス・キリストとの関係の中で与えられる恵みなのです。
 パウロは続けて、「霊による一致を熱心に保ちなさい」と語ります。ここで語られている一致は、努力によって新しく作り出すものではなく、すでに神が与えてくださっている一致です。神の恵みはいつも私たちに先立っています。私たちは、整ってから招かれたのではありません。招かれたからこそ、歩み始めるのです。これらの一致についてパウロは七つの状態を一つずつ挙げています。「体は一つ、霊は一つ、希望は一つ、主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、そしてすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられる神は一つ」。
 ここで語られているのは、一致は土台である、ということです。私たちは生活環境が一致している訳ではなく、考え方が一致している事もありません。ただ一つ、神が一つであり、その神が「おられる」からこそ、私たちは一つなのです。
 キリストに結ばれた信仰とは、神の招きに対する応答です。応答は、何かを成し遂げる約束ではありません。ただ、「ここにいます」と応えることです。主イエスの招きに、「主よ、あなたに従います」と応える、その応答の積み重ねが、教会の歩みを形づくってきました。
先程の七つの一致の中からパウロは、「体は一つ、霊は一つ、希望は一つ」と語ります。私たちの希望は、目に見えるところにはありません。「一つの主」に結ばれていること、その事実の中にあります。そして最後に、こう告白されます。「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられる神は一つ」。
 今日の説教題を「神はおられる」としました。この言葉は信仰の告白です。神は、私たちの歩みの上におられ、私たちの歴史を共に歩み、信仰者一人ひとりの内に、確かにおられます。この神の実存の事実に信頼しつつ、私たちは今日も歩みます。柔和と寛容と忍耐を、キリストとの関係の中で与えられながら、神の招きに、信仰をもって応えましょう。