2026年2月1日(日) 降誕節第6主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   17
主の祈り
交読詩編  詩編100篇
祈  祷   
賛  美   393
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第15章1~17節
子ども説教
説  教  「わたしの愛にとどまれ」
賛  美   493
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(5節)とイエスは弟子たちにお語りになりました。聖書の舞台パレスチナでは、ぶどうは身近な植物です。実を食べますし、実からぶどう酒を作ります。葉も薬用に利用されるそうです。イエスは身近なぶどうの木で福音を示してくださいました。
 それと同時に、このぶどうの木のイメージには、旧約聖書の背景があると思います。旧約聖書の預言者は、しばしば神の民イスラエルをぶどうの木にたとえて語っているからです。その代表的な箇所はイザヤ書5章1節以下です。「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。・・・イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに 見よ、流血。正義を待っておられたのに 見よ、叫喚」(イザヤ5:4、7)。神の思いから遠く離れた民の姿を、預言者は厳しく告発しています。
 「わたしはまことのぶどうの木」と、イエスが「まことの」と語られた重みがあるはずです。預言者が語るように、神の民は神の思いから遠く離れ、もはや自分自身では良いぶどうにはなれません。ですから、神は、独り子をこの世に遣わしてくださいました。神の独り子、救い主イエス・キリストだけが、唯一無二の、まことのぶどうの木なのであって、他にはいない、というヨハネ福音書の信仰が込められていると思います。
 2節に農夫〔父なる神〕は「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とあります。ぶどうの剪定は、良い実を結ぶ枝だけを残すそうです。また、野生の丈夫な木に枝を接木することもあるそうです。
 かなり前のことですが、「城北アシュラム」で、静聴の時の聖書がこのヨハネ福音書15章でした。静聴を終えて、小グループで分かち合いをしたとき、私は2節の「手入れをなさる」に心が引かれたと話しましたら、メンバーの方が「ぶどうの木の剪定は、容赦なく、バッサリ!するのですよね」と応答され、その言葉が忘れられません。そのころ、私は将来について思い悩んでいて、心に葛藤があったからです。
 農夫である父の手入れは、良い実を結ぶためなのです。けれども、神が取り除かれようとするものが、私たちにとって残しておいてほしいこと、取り除いてほしくないことかもしれません。「神さま・イエスさまのため、教会のため、伝道のため」という動機があって「取らないでほしい。残してほしい。私はやりたい」と思っているかもしれません。使徒言行録第16章を見ると、パウロたちがアジア州に伝道することを聖霊が禁じられ、やがて、ヨーロッパへの伝道に道が開かれる出来事があります。伝道活動であっても、神のご意志によって、自分たちの思いを手放し、方向転換させられることがあります。農夫である御父の手入れは、いよいよ豊かに実を結ぶためです。
 では、豊かに実を結ぶとは、どういうことなのでしょう。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(7~9節)。「つながる」「内にある」「とどまる」は原文では同じ語です。豊かに実を結ぶとは、主イエスの言葉が私たちの内にいつもあることです。神の言葉に聞き従い、イエスの愛の中にとどまり続けることです。