2026年2月8日(日) 降誕節第7主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   151
主の祈り
交読詩編  詩編138篇
祈  祷   
賛  美   361
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第15章11~27節
子ども説教
説  教  「証しの共同体・教会」
賛  美   544
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕

〔説教要旨〕

 主イエスと弟子たちの夕食の出来事の続きです。イエスが弟子たちに別れの説教をしておられます。それは何のためでしょうか。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。弟子たちは、イエスが自分たちから離れて、どこかへ行ってしまわれると思い、恐れと不安で心がいっぱいでした。イエスは彼らの心をご存じでしたが、弟子たちがやがて喜びに満たされることを見通しておられました。しかも、「あなたがたの喜びが」と言っておられます。つまり、イエスの喜びが弟子たち自身の喜びに変えられて、ついには弟子たち(教会)そのものが喜びに満たされるのです。主イエスのありがたい言葉はさらに続きます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(12~13節)。イエスが弟子たちを愛して、私たちをも愛してくださいます。その愛は「友のために自分の命を捨てる」ほどの愛なのです。その愛は、イエスの十字架の出来事に示されています。
 夕食の席で、既にイエスは弟子たちの足を洗い、僕(しもべ)のようにして仕えてくださいました(第13章4節以下)。これほどへりくだっておられるイエスが、弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました(15節)。私たちの人間関係において、親子や兄弟姉妹という肉親の関係は、私たち自身どうすることもできない関係ですが、友人関係は違います。それぞれが対等であって、友情を交わし、友情を深めていくものです。私たちはそれぞれに、地域や職場や学校、教会に友がいますが、神の独り子である主イエスが私たちの友となってくださるとは、何と素晴らしく、ありがたい恵みでしょう。
 イエスはなぜ弟子たちを友とお呼びになるのか、こう語られました。「僕(しもべ〔奴隷〕)は主人が何をしているか知らない…。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父〔父なる神〕から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた…」(15節)。主人は、自分の奴隷に友に語るように語ることはなく、奴隷は主人の命令に絶対服従するばかりです。イエスはそのような強制的な主従関係にではなく、私たち一人ひとりに友として出会ってくださるのです。
 それは、イエスの選びによるものです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。イエスの選びは後から分かることです。聖霊の助けにより、イエスを主と信じて告白し、洗礼を受け、神の子とされたことによって、「ああ、私はイエスに選ばれたのだ」と気付くことです。
 「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」(19節)。私たち教会は世に置かれていますが、世に属していません。ヨハネ福音書の「世」とは神の愛を受けながら(ヨハネ3:16)、同時に、イエスを十字架に追いやる「世」です。私たちは世の身内になるか、イエスの友であるのか、どちらかです。
 イエスに選び出された弟子たちのために、弁護者である真理の霊が、父なる神のもとから遣わされます。聖霊が、イエスが主であり、友となってくださると証ししてくださいます。聖霊の証しを受けて、イエスの弟子である教会も、主イエスとその大きな愛を証しするのです(27節)。