2026年3月8日(日) 復活前第4主日
礼拝順序
黙 祷
招 詞 詩編124:8
賛 美 206
主の祈り
交読詩編 詩編116:1~7
祈 祷
賛 美 60
日本基督教団信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書第18章1~18節
子ども説教
説 教 「一人も失わないように」
賛 美 531
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
〔礼拝音声は聖餐部分をカットしています〕
〔説教要旨〕
別れの説教を終えて、主イエスは弟子たちと一緒に、エルサレム神殿の丘の東側にある、キドロンの谷の向こうへ出て行かれました。そこにはオリーブ畑のある園があり、イエスは弟子たちとたびたびそこに行かれて、いつも祈っていました(1~2節)。おそらく弟子たちは、イエスがいつものように、いつもの場所でお祈りなさると思っていたでしょうが、この園でイエスは捕えられます。その手引きをしたのはイエスの十二弟子の一人であるイスカリオテのユダでした。ユダは、ローマの一隊の兵士と、神殿で働いている祭司長たちと、ファリサイ派の人々の下役たちを引き連れて、園にやってきたのです。この人々は、松明やともし火や武器を持っていました。
このような状況でしたが、「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた」というのです(4節)。イエスは、ご自分の弟子であるユダが、自分をユダヤ当局の人々に引き渡すこと、これから十字架に上げられること、父なる神のもとに行かれること、一つひとつご自分の身に起こることをご存知でした。逃げも隠れもしませんでした。さらに、イエスのほうから、堂々と、彼らに向かって「だれを捜しているのか」と問われたのです。そこで、彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と名乗りを上げられました。
ヨハネ福音書ではイエスが「わたしである」と何度も宣言しておられます。これは、出エジプト第3章で、モーセを召し出したとき、主なる神がモーセにご自身の名を明かされた出来事が背景にあります。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ・・・た」(出エジプト3:14)。「わたしはある」とイエスの「わたしである」とは同じ意味です。ですから、イエスを捕らえに来た人々が、イエスが「わたしである」と言われたとき、後ずさりして、地に倒れたのは、生ける神の独り子と相対したからです。(6節)。再びイエスは「だれを捜しているのか」とお尋ねになりました。「ナザレのイエスだ」と彼らが答えたとき、イエスは言われました。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(8節)。イエスは弟子たちを守ってくださるのです。それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と祈ってくださったイエスの言葉が実現するためでした(9節)。
これは、私たちにとっても、ありがたい言葉ではないでしょうか。弟子たちがイエスを守るのではなく、イエスが弟子たちを、私たちを守ってくださるのです。一人も失わないように、イエスがその身をささげてくださるのです。
そのイエスの思いを知らないで、弟子のペトロは剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としました。そのとき、イエスはペトロに言われました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
このイエスの言葉も、まことに現代的な響きがあります。私たちはイエスを守ろうと、あるいは教会を守ろうと、何とかしようと、持てる力を、剣を振り回すようにして行動するかもしれません。それは、相手に傷を負わせるばかりのものかもしれません。その剣をさやに納めること。イエスは「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」と言われました。「杯」とは苦難のしるしです。主イエスは、私たちを救うために、苦しみを受け、命を捨てられます。それを父なる神のご意志として引き受けられます。師を裏切るユダや師を知らないと言うペトロのような弱く、罪深い人間をだれ一人失わないように、イエスは杯を飲み干されます。