花田達朗教授による公共圏について

 2002年3月3日の建築あそび の記録   1-1
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講師紹介
   
花田達朗(はなだ たつろう) 東京大学社会情報研究所教授
連絡先:<hanada@isics.u-tokyo.ac.jp>
主要著作:

『公共圏という名の社会空間―公共圏・メディア・市民社会』木鐸社、1996年。

『メディアと公共圏のポリティクス』東京大学出版会、1999年。

『カルチュラル・スタディーズとの対話』(共編著)新曜社、1999年。

「パブリックな生活」
『社会情報学 II メディア』(東京大学社会情報研究所編)東 京大学出版会、1999年、25-47頁。

「公共圏に吹く風」『InterCommunication』No.36、Spring 、2001年、98-101頁。


         


教授と私の出会い


 私が花田達朗教授にはじめて出会ったのは、2001年8月22日嵐の夜である。台風が東の海上を今しがた通過したばかりの仙台駅前の画廊でした。そこでは建築家の阿部仁史さんをはじめとする、仙台在住の人や建築に関係する人達が展覧会を開いていたので覗いたのです。初日でもあり展に花を添えるようなかたちで、ミーティングが開かれる予定でした。私は・・たぶん今後の話・・仙台で学生生活を送っているmy長男・長女に会う用事もついでにと思い出かけたのでした。

 会場での話しあいはさほど印象に残っていないのですが、終了間際に会場の柱の陰から発言された男性の言葉が気になったので、ミーティング終了後チョイト質問しました。その方が花田達朗教授だったのです。私の質問に対しての回答がとても明快なことと、言葉の中にあった「公共圏」という印象的な言葉が心地よかったこともあって二次会に付いて行きました。my長男達が家にもどってないし・・時間があったのでしょうね・・ご縁があるということです。その時の二次会は地元の建築家の方達の参加がないのでチョト驚いた記憶があります・・建築家って阿部さんと俺だけ・・てなかんじでした。

そうだ・・・そこで五十嵐太郎さんにもあったのでしたー。その後二次会も盛り上がり、いつものようにダベルダベルしてたら・・Nさんという女性にとても嫌われたが、旧知の阿部さんと二人のナイスな男性とで三次会へ・・運がいいんだね

二次会で例によって建築あそびに誘ったのだね・・、かなり図々しいんだけど・・そしていよいよ7ヶ月後・・02年3月2日になりました






2002年3月2日花田達朗教授 講演内容 

     公共圏 について教授からの直伝 開始です

                 

花田です。
佐藤さんとは、仙台メディアテークを見学のため訪問した時に、ちょうど建築家達のミーティングが夕方あって・・そこで、その二次会の飲み屋で隣にいて・・

              会場笑い

そこで親密になりました。今日は親密圏じゃなくて、

              会場笑い

公共圏についての話をすることなんですが、とりあえず私なにも、お土産ないので資料だけもってきました。スライドを見せることもできません。
 文字しか手段がないのですが、資料は後でも説明するかもしれませんが・・

一つは去年の春かな、NTT出版から出ている『インターコミュニケーション』っていう、雑誌に書いた「公共圏に吹く風」っていう文と・・

 99年に出た『社会情報学 U メディア』(東京大学出版会)という本に書いた「パブリックな生活」という文、

元々の題は「メディアとパブリックな生活」っていうタイトルだったんですけど、編集者にメディアを削られちゃったので、「パブリックな生活」というタイトルだけなんですが、これはデスマス調で書いてあって・・本の編集意図としては高校生とか、大学生とか若い人たちに向けて書くというのがあって、そのもとで書いているので、それでデスマス調で書いている。

望むらくは、分かりやすくなっていればなと。

も一枚はですけれでも、これで・・今日はメインです。ここにある2つの図で説明しようというふうに思っています

   

佐藤さんから1時間から1時間半ぐらいでと言われてるんですが・・新幹線の中で考えてきたのは、公共圏とは何なのかということをお話し、それを説明をし、皆さんに分かっていただきたいということで、お話をするわけですけれども、それをやる上で西欧バージョンでまず最初に。それから次が日本バージョン、或いは日本史バージョンで。後はノリと時間とによって、第3バージョンで・・それはノリと時間によるんですけど、現代バージョンエロスバージョンかどっちかに傾くと・・いう感じで。
         会場微笑む

先ほど皆様がたがなさっているお仕事とか伺ったんですが、直接皆さん方の、関心にどれだけ答えられるかは、全く自信ありませんけれど、公共圏という概念がどういう事なのかを分かっていただくためには、どうしても一定の手続きが必要なんですね。

           公共圏という概念

概念っていうのは、ま・・英語で言えばコンセプト。コンセプトって言うのは人間が頭の中で考え出したものであって、それに言葉を与えてるわけですね。今日の例で言えば公共圏っていうコンセプト、公共圏というモノの考え方っていうのが、ある時浮上してきて、それに「公共圏」っていう言葉が与えられて、そこで概念がフィックスされたんですね。そうしないとコンセプトは浮遊してしまうものだから、言葉を与えるわけですね。公共圏に限らず概念と言葉っていうのはそう言う関係にあるわけですね。

 そのことは日本の問題に後で降りかかってきますけど。公共圏なんて日本語はですね、おそらくよほどのオタクでない限り聞いたことないと思うんですね。「そんな日本語あるの」と。(笑う)・・「何処でも見たことないわ・・聞いたことないわ」と普通は思われるわかですね「どこかのジャーゴンかと」いうかんじで。

 そう言う言葉が日本語圏に無かったというわけであって、それはそれなりの理由があるわけですね。

公共圏っていう言葉に対応する概念がなかったからその言葉を必要としなかったんで・・。その言葉が無いっていうこと、その言葉がなくてもこれまで済まされて来たということ、あるいは済んできたっていうことは、その公共圏っていう言葉に相当する概念を日本社会が持たなくても、今までのところやってこれた、と逆に言えるわけですね。

ただココに来て、どうして公共圏っていう日本語を作り出して、その公共圏っていう言葉を日本社会の中に投入しているのか・・私はそれをしてるわけですけれど、この10年ぐらい。それは別の言い方もできて、公共圏っていう言葉を投入することによって、公共圏っていう概念を日本社会の中に持ち込もうとしているんですね。

 プロセスとしては普通の逆をやっているわけですね。普通ならば公共圏っていうコンセプトが社会のなかから、こう隆起してきて、それでそういうコンセプト、そういう考え方が必要だっていうことが一定の人たちに認められはじめたときに、そこに言葉が与えれて、その言葉が広く流通をしていって、その概念が結局、多くの人々に共有されるというのが普通の歴史でしょうね。

公共圏っていう言葉は「公共」と「」という2つから成っています。まず、公共圏の公共っていうのはパブリックなっていう意味ですね。英語で言えば「パブリック」で、形容詞。公共的な圏域ということ。或いはもっと言えば公共的な社会空間ということですね。

「公共的な」っていう形容詞と「圏」という名詞。圏の代わりに社会空間でもいいわけです。公共的な圏域、或いは公共的な社会空間。形容詞と名詞、二つの言葉から成り立っています。
 公共的な圏域、或いは公共的な社会空間って・・そういう言葉を投入するっていう時に、私がそういう言葉を投入してきたということの意味合いは、なんなのか。

    公共的なっていうことはいったいどういう事なのか

 公共的なっていうことはいったいどういう事なのか。公共的なっていう形容詞はいったいどういう事なのか。先ほどの資料で言えば、「パブリックな生活」って言った時に、パブリックなって、どういう意味なのかという問題ですね。これ、なかなか面倒な話・・

    公共的なっていう形容詞が受ける名詞として「圏」

それからもう一つ、公共的なっていう形容詞が受ける名詞として「圏」っていう言葉をもってきている。圏域という、ある種空間的な表現を持ってきている。圏の代わりに社会空間でもいいっていう風に申し上げました。パブリックなっていう形容詞を受ける名詞として社会空間っていう、空間という言葉を持ってきています。その意味合いはどこにあるのか

結局この二つになる。パブリックなっていう形容詞は一体なにを現しているのか、と、それを受ける名詞として、社会空間というふうに・・空間として構成する、認識するっていうことはどういう事かという、二つの柱がこの言葉のなかには、公共圏っていう言葉の中には同居しているですね


  現在の日本で公共性っていう言葉に良い印象がないのは

我々は普通・・公共的とかいう言葉をあんまり深く考える必要もなく、使ったりもしていますね公共建築物であるとか、あるいはこれがちょっとくせ者ですけれど、公共性であるとかですね。これはまぁーよく、よくでもないけれども

 例えばオタク(box13をさしている)が道路が出来るから半分削られちゃうっていった時にですね・・・それは道路という公共性の高いモノを作るがためにですね、私権の及ぶ私有地が公道という道路の建設によって削られるといったときの論拠としてですね。「自分は嫌だ」って言ったって、最終的には強制収用されて持っていかれちゃう。その時の論拠として「道路は公共性が高いだから私的所有権よりも優位に立っているんだ」と。そういく時によく使われる言葉が公共性ですよね。

あるいは新幹線騒音訴訟であるとか、空港の騒音訴訟の問題とかですね、住民側が新幹線や空港の騒音がうるさいと言って訴訟を起こしても、これまでのところ日本の司法では多くの場合、そのような施設は多くの人々が利用する公共性が高い施設であるからして、ある程度の騒音被害は受忍すべきであるというふうな言い方で、訴えを退けてきたわけです。そういうときに公共性っていう言葉が使われる



そうするとですね・・イントロが長くなりますが、日本で公共性・或いは公共って言ったときに言葉のニュアンスは多くの人々があんまり良い印象を持ってないんですね。

なにか上が、お上が、あるいは政府が押し付けて来るときに、いつも持ち出してくる言葉そのように聞こえるんですね、公共性って言葉。

 それは日本っていう社会の中での公共性っていう言葉の用いられ方の、孕んでいる問題であって、・・ある種日本では公共性っていう言葉が、公権力の、政府とかですね、そういう公権力の意思を通す時の用語として使われて来た。だから多くの人々の公共性って言うときのイメージって良くないです。


         NHKは・・・・

別の例でいうと、例えばNHKは公共放送といいますね。でも、多くの人々は・・例えば大学にですね、「NHKはどういう放送だと思いますか、手を上げてください」 「1 国営放送、2 民間放送3 公共放送」っていうと・・。国営放送って言うところで半分ぐらい・・三分の一ぐらいの人が手を挙げるんですね、NHKっていうのは国営放送だって思っている人が大変多い。公共放送っていうふうにあんまり思っていないですね。

それはNHKの番組作りに問題があるのかも知れないけど、公共っていう概念が日本の人々の頭の中にうまく位置づけられていないし、広がっていないってことなんですね

自分たちが放送受信料(税金ではなく)というお金を払っているにも拘わらず、NHKというのはお上の放送であって、国営放送であるって考えている人が多く、アレを公共放送だって思っている人が驚くほど少ない。
だから公共って言葉が、以上で観ても分かるように、定着していない。それが日本に絡めたイントロですが・・

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 は公共圏について 西洋バージョン は日本バージョンです)