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南泰裕建築ParkHouse体験記
    
 放置されてる違和感・・の源を訪ねたい (>_<) 

 その1へ  20日の見学のこと その1 これなんじゃない源


しばらくすると南さんは小さな屋上に登って、南さん自身が屋根のアンテナのような仕草をしてくれた。「あぁそうなのか・・放置されてる違和感・・の源は 都市に対する違和感でもあり、都市を自己と読み替えてもいいし、都市を築く素材や要素でもいいな。そいてその先には旧来の建築家と読み替えてもいいんだなー」と思った。・・それらに対する違和感なのである。私は南さんの違和感の源の在処を 何となくアンテナになって大地に下りて来ようとしない南泰裕さんを見て感じた。
    
            

芝に寝ころんでいると、南さんのアシスタントをしてる荒木啓太さんがやって来てあれこれ話てたり、2ショットを撮っていただいたりしてた。

 方々にある快楽的視線を阻止するかのような手すりに苦言を呈したりしていた。そんあことはいいなー構造を明らかにするような視線開拓のために奉仕するようなことをしなくてもいいとも思う。そんな些末な話もして都市の夕日を浴びながら時を忘れて話していた。

南さんの経歴を詳しくは知らなかったが「原広司さんとこ研究室で巨人や阪神ことで盛り上がっていた」と語っている。

私は偶然02年3月末原広司さんの自邸を・・多次元フォトコラージュ用撮影で原さんの空間を体験していた。(建築文化650 CR−ROM参照)その体験と目の前の南さんの空間を比べて想った。

原さんの都市は整然とした絶対的な都市とでもいうようなもので、年に1度でも使われたらいいような 神社の階段に 20世紀の 唯一絶対都市がへばりついて、建築家自身にとっては快適で整然としてるんだろーなとは思う。でも他者にとっては退屈で窮屈だ・・視線さえ自動的に誘導されちゃう、大きなお世話なんだなー・・その構造の中で意図を裏切るように・・違反するかのような写真を撮るのは骨が折れるし・・撮りにくい。 でも水平を傾けたたり 視線を回遊させることで逃れる。作ったフォトコラージュは建築家の意志から違反し逃走出来たのだろうか・・。

        

南さんの建築を注意深く体験し・・その日の事象が自分の記憶として消化してしまうと。(南さんの建築を忘れてしまうと)ようやくその構造の本質の本質が顕わになるようだ。

 内壁面がそれぞれ 互いに違反している。原さんの空間のような20世紀的な意図のもとでは 調和がとれ 神格化した落ち着きを与えるような力が行使されるを良しとして、そのような旧来の愛に後ろ髪も引かれるかもれないが・・。南さんの意図はそのような構図を拒否している。巧妙に仕掛けてあるから・・チョイト気が付かないかもしれない。

その辺は上手いと私は思う。

 正面を見ながら背面の姿を関知していないと全くなんのことなの・・さえも理解できないよになっているからね・・。鏡を立て後ろの壁と正面の壁をコラージュすると、その感じが少し解るかもしれない。

内部の説明でも触れたてきたけど、都市の表面を写すような格好で・・ 対面する壁が互いに違反しあう そこで確実に違和感を誘発するような仕掛けとでも言えばいいのだろうな・・違和を放りなげたような感じ・・表現に見える。これは南自身が確信的に犯している違反であり、都市に対する好意の表明かもしれない。

調整しようとする意図とへの違反と ・・その姿勢さえ簡単には見せようーとしない南自身のなかの 二重の違反行為だ・・・・知的な遊戯なんだなー・・。
 
唯一道を挟んだ関係・・だけという、貧相な無関係・・それノミで成立してるかのような都市の顔・・のようななんだ。そんなものが住居に埋設されている・・放置されてる違和感・・これはとても面白い そうえ 外形は小屋型ではなくて 都市のスカイラインを写しているんだな・・。
    
         

 南自身の都市感が 大地(住居の床)を実情の都市のファサード(発注者の姿)で囲んだと いってもいいかもしれない。

 原さんちの階段は真っ直ぐに伸びていて深まるばかりだったしそれが古風だった。
 南自身の階段は半時計回りに旋回していて、一目で南自身の都市の構造を見せることはない。

そうか・・放置されてる違和感の源はこことあそこにあったのかー

案内メールをいただき・・再びなにゃろ・・と思ったんだが 南自身がPark Houseと名付けた意図も腑に落ちて来た。都市にある・・じゃなくて・・知の奥にひっそりと佇むPARKか・・。

南は明らかに原とは位相が異なる地平に立った建築を作っている。原の弟子で現代のシステムに奉仕して疑問も抱かぬような山本とも全くことなる・・山本との対極に位置していると言えるかもしれない。

思想を集約ストックするモノから、人々にとって交通し使用し楽しむ為の媒体となった今世紀の建築の姿を指し示しているかもしれない

南自身が自らの思考を紡ぐ言葉のように、建築としての素材自身を扱いだすと、南は建築をメデュームのような、モノに変え軽々と都市のトップラインを快走してしまうだろうし、飛び下りてきては土地や床の意味を変容させてくれるだろう

         

これは田舎かから遙々でかけカンカンカーンと照る都市の夕日に打たれため オバーヒートした能が描いた私の幻影なのだろうか・・。

 お忙しいなか案内していただきまして南泰裕さん荒木啓太さん有り難うございました。その温かい好意と 発注者の皆様の建築に対する想いに感謝いたしまして、南泰裕建築体験記02−7−20版は一端終えます  皆さんありがとうございました

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