蘇我蝦夷の墓を発見! 2007.3.5
 
梅林と近つ飛鳥博物館と二上山
近つ飛鳥に転居して8ヶ月が過ぎました。ようやくこの土地の風土に慣れ親しんできたところです。住めば住むほど、季節の移ろいを膚で感じることができるこの場所に住むことが出来て良かったなぁ! という思いが湧き上がっています。
今回は、早春の梅の香りに誘われて、近つ飛鳥博物館の東側、俗に「王陵の谷」と呼ばれている付近を散策してきました。
そこには、まるで時間が止まったようなのどかな景色と里道が残っていました。


伝、近つ飛鳥に蘇我蝦夷の墓!!!

最近、遠つ飛鳥(奈良県)の高松塚の解体が新聞紙上を賑わし、昨年暮にも、甘橿丘の駐車場整備中に丘の中腹から蘇我蝦夷の居宅跡? が発掘されて、日本中から明日香ファンが押しよせていています。

大化の改新(645年)で入鹿が暗殺されたあくる日、父の蝦夷は自宅に火を放って焼け死んだと日本書紀に記されています。埋もれていた焼け土の出土層の年代が蝦夷邸炎上の頃とほぼ一致するというので、古代ロマンをかきたてられたようです。

その時、蝦夷は自宅で編纂中だった国記、や天皇記(伝・聖徳太子編纂)にも火を放ち、灰塵に帰しました。これを境に栄華を極めた蘇我本宗家は断絶したとされています。それらの文献が残っていたら日本の国の正史はもっと変わっていたかも知ませんね。本当に残念ですね。古事記が編纂されたのはこの後67年後、712年でした。


その蝦夷の墓が近つ飛鳥(大阪府)太子町のこの山の中にあるのでしょう? 

立て札には、「Oー10号墳、蝦夷塚。小さな祠に善女龍王を祀って雨乞いの神さまとして信仰されている。海老塚、または蝦夷塚と呼ばれ、中略、地元では蘇我蝦夷の墓と伝承されている」と書かれていますが、詳しい経緯はわかりません。

もしかしたら、蘇我蝦夷は竹之内街道のどこかの獣道を通って山を越え、この蘇我の本拠地付近にひそかに逃れ、山の住民や村人たちに匿われて天寿を全うし、ひっそり息を引き取ったのでは? 

この見晴らしの良い尾根にある小さな古墳(O−10号古墳)はすでに盗掘されているので、被葬者は誰かわかりません。でもこうした伝承が脈々と現代まで伝わっているなんてすごいロマンでしょう? 奈良の明日香に行く人々の百分の一人でもこちらに来てほしいものですが…。

少し前まではこの辺りは、一面のみかん畑だったそうですが、今はみかんの木が刈られて、オリーブの若木がたくさん植えられていました。オリーブ栽培もできるほど気候も温暖で、古代から果樹や農作物が豊かで人が暮らしやすい土地だったのです。

この場所から真下に続くなだらかな丘陵の先には二上山を見ることができます。きっとこの景色は蝦夷の時代から変わっていないことでしょう。本当に蘇我蝦夷はこの地で静かに暮らしていたのかも?
(写真、丘陵地の向こうには、二上山が見える)

藪の中の O−6号古墳

蝦夷の墓を通り越して人通りのないのどかな里道を太子町の方に歩いてゆくと、またもや古墳の標識を発見!

「かなりの大型円墳で、石室内には二個の家型石棺と一個の木棺がある」と書いてあったので背丈ほどの笹を掻き分けて付近を捜したのですが、残念ながら古墳を見つけることはできませんでした。

きっと我が家の建っている阪南ネオポリス周辺の丘も開発前はこんな感じだったのでは?
 近つ飛鳥風土記の丘の整備された古墳を見慣れていたので、こんな風に放置されている古墳はちょうっと素人には探索不可能。まだ、冬草の状態で写真のような藪の中なので、新緑の頃にはもっと草に覆われてしまって、この立て札も見えなくなってしまうかも? 夏にはマムシも? ということで、近いうちに再挑戦したいと思っています。 


敏達天皇陵

里道を降りて葉室村のお墓を通り過ぎ、太子町の村の中をあてどもなく歩いていると、敏達天皇科長陵に遭遇! どうやらこの御陵の裏側には大阪芸術大学のキャンパスが広がっているようですが、道が途絶えていたので確認できませんでした。

この辺りには資材置き場やビニールハウスがあって、そこにポツンと御陵が取り残されているという感じです。古代にこの地は大陸文化流通ルートの中心地として賑わっていたと思うとちょっと今の風景は寂しい感じですね。

この日はこの辺りで日か暮れて寒くなったので帰路につきました。家に帰って地図を見るとなんと葉室公園の近くには蘇我馬子の墓もあるそうです! 馬子の墓って例の遠つ明日香の石舞台では? そういえば仁徳天皇陵も墓の主の真贋の程は不明とされています。歴史の真実は深い闇の中… 次回は近つ飛鳥の馬子の墓を訪ねて推古天皇陵や聖徳太子のお墓周辺を歩くつもりです。散策レポ〜トをお楽しみに…。


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