この世は夢まぼろしの水鏡
 

どちらが本当の神武天皇陵?

 
本居宣長(江戸時代)は見た! (*^。^*)

2009年(H21、11、8)江戸時代、本居宣長が立ち寄ったと「菅笠日記」に記されている神武天皇の(本当の?)お墓の場所に参拝してきましたぁ〜( ^)o(^ )

トップの写真は、宮内庁が管理している神武天皇陵です。正式には(畝傍山東北陵・うねびやまうしとらのみささぎ)という場所を表すだけの名称で呼ばれています。(今回初めて、この御陵に参拝しました。これまで何回となく橿原神宮には参拝しましたが、すぐ近くなのに、なぜか、この御陵にお参りするチャンスがなかったのです)

奈良時代、天武天皇が戦勝祈願の供え物をするため、神武天皇のお墓に人を使わしたという記述があるそうです。
その頃には神武天皇の陵墓は誰もが知っていたのでしょうね。

しかし、江戸時代にはすでに判らなくなってしまっていたようです。生涯をかけて『古事記』を研究した宣長も神武の本当の墓の場所を探して畝火山周辺の村々をあちこちと訪ね歩いたことが日記に詳しく書かれています。

古事記には「御陵は畝火山の東北の尾の上にあり」と記されています。江戸時代、神武田と呼ばれる田んぼの中にぽつんとあって、上に松と桜が植わっているだけの小さな盛り土を見て、どうもここではないようだと書き記しています。

神武天皇陵墓の候補地は本来、三つか四つあったらしいのですが、二転三転しながら明治の初めに、ようやく現在の場所に決まったそうです。
それでは、宣長はどこが本当の神武の墓だと考えていたのでしょうか? それが・・・今回私たちが探検に入った「洞の丸山」と言われた畝傍山の中腹の小高い盛り土の場所らしいのです。

畝傍山の東北麓に洞村(ほらむら)という集落があって、その村の人々は神武と一緒に九州からやってきて代々、神武天皇の墓の守戸だった、という言い伝えがあると誰かに聞いたことがあります。

しかしその洞村はいわゆる被差別部落なので、大正時代に橿原神宮と神武陵を大改修整備するときに半ば強制的に今の地(奈良県橿原市大久保)に移住させられたようです。村の神社や寺の古文書類もすべて焼き払われたり、火災にあったりして、灰塵に帰したとのこと。

ちなみに洞村の古老の聞き書きでは「この丸山の地が神武天皇の大宮所だった。この地に昔、白橿の木が七本そびえていて、「かしはら」の名前はそこから付いたと教わった。しかし、その古老の若い頃(幕末頃か?)には最後の一本の巨樹が枯れ木となっており、注連縄が張られていたが、その木も枯れ果てた。

しかし、本当のことを話すと村民がこの土地から追い出され、皆が路頭に迷うので、お頭にかたく口止めされていた」ということです。とにもかくにも・・・なにしろ2600年以上も昔の話・・・、今となっては・・・夢まぼろし・・・真偽の確かめようもありませんね。

また、この時期(大正6年〜9年)にかけて、洞村だけでなく、周辺の村も強制移住させられ、山頂にあった、畝傍山口神社も、御陵や橿原神宮を上から見下ろすのは恐れ多いと、山すその現在の地に下ろされています。





いよいよ、「洞の丸山」を目指して探検の巻き(゜-゜)

三年前、この幻の神武天皇陵(洞の丸山)に古代史研究会の仲間が足を踏み入れ、本当の神武天皇陵にたどり着いた!!とメールで知らせてくれました。

以来、その場所に行きたくて、行きたくて、うずうずしていましたが、今回ようやく、その仲間たちと一緒に探検&参拝することができました。

江戸時代の古地図を見ると、このあたりは畝傍山の樹木が途切れ、集落と田んぼが広がっています。

写真のジオラマは「おおくぼまちづくり館」内に展示されている移住前の洞村(幕末ごろ)と
整備後の神武陵です。

しかし、今では村や田んぼは跡形もなく消えうせ、大正時代になってから新しく植林された木々がうっそうと茂る森になっていました。

資料館の方の案内で、いよいよ洞村跡を目指して足を踏み込みました。森の中にはかつて人々が家屋敷の庭に植えていたであろうと思われる棕櫚の木や庭木があちこちに見られました。

森の中を少し行くと井戸跡を発見! 今でも水が湧き出していて、暗い中に目を凝らすと水面が見えました。案内の方に聞くと移転時に村の共同井戸はすべて埋められたとのこと。仲間の一人がこの井戸の前でしばらくじっとしていましたが、「この井戸は龍神様に守られている!」とつぶやきました。その言葉通り、井戸のすぐ上が洞村の氏神である生国魂神社のあった場所だったのです。

そして、その上の小山が目的の地。
本当? の神武陵「洞の丸山」でした。
今でもここはれっきとした宮内庁の神武天皇陵墓比定地です。
樹木の中に「宮」と彫られたコンクリート製の杭があり、盛り土を囲むように六本打ち込まれているとのことです。
もし本当に、ここに神武天皇が葬られていたとしたら・・・と思うと・・・なにか魂が揺さぶられるような気がして思わず、仲間と「君が代」を歌って手を合わさずにはいられませんでした。




自分の墓を神武陵に似せて作った本居宣長ヽ(^o^)丿

ところで、本居宣長は自分の墓を神武天皇陵に似せて作った(宣長自筆の墓のデザイン画)とも伝えられています。

2003年(平成15年)本居宣長記念館に「古事記のものがたり」の本を置いて頂いたお礼に松坂市を訪れた際、山室山の奥墓(おくつき)に連れて行っていただきました。

奈良や大阪の巨大古墳(特に仁徳・応神天皇陵)などを小さいときから見慣れている私は、本居宣長が見たと言う神武天皇の墓は「こんなに小さかったのか!」とびっくりしたことを今でも良く覚えています。

桜をこよなく愛した宣長の墓(古墳)には、神武陵にも植えられていたという山桜が一本植わっていました。しかし自筆の設計図を見る限り、図面上では桜は二、三メートルの位置で枝や花をつけていますが、実際には奥墓に植えられていた桜の木は、周辺の樹木と太陽の取り合いをする為、高く高く空に伸び、ご覧のようにとても写真に入りきれません。

宣長翁も、まさか山桜がこんなに背が高くなるとは思っていなかったことでしょうね。




122代の時空を越えてのお墓参り

さて、本当の?神武天皇陵に探検&参拝した前の日(11月7日)。京都で日本書紀の勉強会があるから、ぜひ一緒に! と、友人に誘われて何気なく参加申し込みをしたのですが・・・・その日は講座の前に希望者と一緒に、講師のひいひいお祖父さんのお墓にお参りする段取りになっていたのです。

集合場所は京都の桃山御陵駅! 実はその講師は明治天皇の玄孫、竹田恒泰氏だったのです。
友人に「明日、神武天皇の本当のお墓にお参りする予定だ」と告げると、へぇ〜〜一気に122代(天皇を)も飛び越えて、お墓参りのはしごやねぇ〜〜と・・・・。そして、もしかしたら、明治天皇から神武天皇に何かメッセージがあるのかも知れないからと、桃山御陵の正面に落ちていた枯葉を一枚拾って手渡されました。

次の日、集合時間前に畝傍山東北陵に着いたので、その葉っぱを御陵の中に投げ込んでお参りしました。そして立ち去ろうとした瞬間、数十羽のカラスの群れが上空を大声で鳴きながら飛び交いました。

カラスは霊鳥で、特に天皇霊とは切っても切れない繋がりがある。昭和天皇のご葬儀の時、棺を乗せた車の上空を、数十羽のカラスが飛び交いながら多摩御陵まで参列するように飛んでいた、という話を古神道のK先生からお伺いしたことがあります。

そういえば、神武天皇を熊野から道案内したのも三本足のヤタガラスですね。やはり、明治天皇から神武天皇に何かお言付けがあったのかも? 


それにしても、桃山御陵の壮大さに比べて、洞の丸山の宮跡(御陵)の侘しいたたずまいを思うと・・・「この世の儚さ」を感じずにはおれませんでした。




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