C、W、ニコル
C、W、ニコル(アファンの森財団理事長・作家))/2004年5月取材

みどりあふれる森を再生

愛する日本の為に




日本との始めての出会い

C.W.ニコルさんは英国の南ウェールズ地方で生まれた。
「ぼくの出身はケルトです」とニコルさんは話し始めた。

英国という国は多民族国家であり、ケルト族は独特の神話を持つ英国の先住民である。また、ストーンヘンジの巨石文明や日本の縄文土器の文様とそっくりのケルトの渦巻き模様など、古代文明の担い手として近年になって注目研究されている少数民族だ。
世界的に有名な歌手の「エンヤ」もケルトの血をひいているという。

「ぼくは5歳まではケルト語で話していました」小学校に入った時は生活習慣の違いからよく虐められたという。ニコルさんは尊敬する父親が海軍だったこともあり、12才で海軍のカレッジで訓練を受けながら学校に通っていた。

「ぼくの育った町には大正時代から日本海軍の将校や造船関係の日本人たちが大勢住んでいました。15才のとき、柔道指南のために講道館から英国にこられた小泉先生から本格的に柔道や空手を習いました」

その先生との出会いが彼の日本との最初の邂逅だったといえる。
「祖父はいつも『本当に強い人というのはやさしいものだよ』と言っていたのですが、小泉先生はまさにその通りの人でした。その時から僕は日本が大好きになったのです」


カナダで北極探検

ニコルさんは17才のとき、恩師に同行してカナダに渡り北極地域の野生生物調査団に参加した。英国に帰って大学に進学したものの北極への思いが断ち切れなくて大学を退学、カナダ政府の漁業調査局、環境局の技官に就職し12回もの北極地域の調査を行った。

この間、空手の修行のため1962年に来日。日本の自然、特にブナの原生林の荘厳さと美しさに魅せられてしまう。

「そこはまるで『エデンの園』でした。はるかな昔、ぼくの祖先のケルト人もこの感動を味わっていたのかもしれないと思うと涙があふれて止まりませんでした。ぼくの生まれた町では産業革命のために森の木をほとんど切り倒してしまって禿山ばかり、石炭のぼた山だけがぼくが覚えている故郷の現風景だったのです」


日本に定住を決意

ニコルさんは1967年から二年間、エチオピア政府の依頼を受けて、国立公園の建設のために公園長として招聘された。しかし革命によって計画が中断しカナダにもどることになった。この間に作家として多くの著作をものにしアメリカ、カナダ、イギリス、メキシコなどで彼の本が多数出版された。

1969年、ニコルさんは日本語習得のために再来日、東京日本語学校、日本大学に入学した。
「ふりかえってみれば人生の曲がり角に立った時、ぼくの心はいつも日本に向いていました」

1975年には沖縄海洋博でカナダ館副館長として来日。美しい日本の自然と礼節を重んじる日本人を愛する余り、三年後にカナダ政府技官の職を辞して日本に定住を決意する。


「C.W.ニコル・アファンの森財団」を設立

しかし、そのニコルさんも1980年代のバブル期には日本の行く末に絶望しかけていた。

「何百年も生きてきた大木をお金のために平気で切り倒してダムを作るなんて、日本の人は一体何を考えているのだろうかと思いました」

その時、彼は故郷ウェールズで森の再生に掛ける人々と出会った。

「ぼた山だらけだった故郷の山が人々の努力によって緑あふれる森林公園に大変身していました。その現状を見たとき、ぼくはもう文句ばかり言うのは止めようと思いました。そして彼らに習って愛する日本のために力を尽くそうと決心したのです。」
以来、ニコルさんは黒姫山の土地を少しずつ買い始め、荒れ放題の森の間伐を行いながら森林の保全に取り組んでいる。

最初のうちは無理解な人たちから『ニコルは金儲けのために土地を買っている』と陰口をたたかれた。しかし彼を理解してくれる大勢の仲間に支えられて1995年、長野県から正式に財団法人と認定された。いま、アファンの森は太陽の光が降り注ぐ森へとよみがえりはじめているという。

最後に「僕がどんなに日本が好きか、どうか判って下さい!」とニコルさんは、はにかみながら語った
(みやぎき 翠)


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この人の話

一番大事な財産とは「目に見えないもの」

いま、日本人は「日本のこころ」を探しなおす時期にきているのではないでしょうか?
20年ほど前、ぼくは日本の行く末に心底絶望しかけていました。みなさんは息子や孫たちにどんな日本を望んでいるのでしょう? 一番大事な財産は目に見えないものです。信用、友情、健康、やすらぎの方がお金よりもずっと心地よいものです。

北には流氷が着岸して、南にはサンゴ礁の海を持っている国なんて他にはありません。人も自然の一部です。常に畏敬の念を持って自然に接し、その恵みに感謝しながら日本の人々は暮らしていたはずです。

ぼくはいま、C.W.ニコル・アファンの森財団を設立し、森の再生に取り組んでいます。この仕事は手間ひまを惜しんではできません。まずは、荒れ放題だった森の間伐を行い、一本一本に養分が行き渡り、充分な太陽の光が当たるようにしました。

丈夫でまっすぐな木が育つようにするためです。小鳥たちが好んで巣を作る茂みだけを残して、地面を覆う熊笹をはらいます。こうして地表にまで日光が届くようにすれば、そこにはさまざまな花や若木が育ちます。

さらに池を掘り、水路をきれいにし、カエルやイモリ、水生昆虫、サギやカモたちのための環境もととのえました。

1995年以降、アファンの森は生物学のフィールドワークと「エコツーリズム」を学ぶ学生たちの訓練場にもなっています。すでに700名以上の学生がここで実習を行いました。欧米からの見学者も増えてきました。

そして,ぼくの故郷ウェールズのアファン森林公園と姉妹森の提携も実現しました。私が世を去った後も「この森は大好きな日本で長く生きつづける」そう思うことで心がどれほど穏やかになることか…。

外国人であったぼくは、ようやく名実ともにこの国の一員になれたと感じています


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