ハンセン氏病の島を訪ねて
 
  (岡山県・長島愛生園)2001、6,10

愛生園慰霊塔の前,、紺の上着が田端氏

非人間的な「ハンセン氏病隔離政策」

梅雨晴れの快晴の一日。初めて国立らい療養所、長島愛生園を訪れた。

中学時代、親友の家に遊びに行くと、彼女のお父さんが必ず手品や腹話術をしてくれた。父親のいない私にとって、理想の父親像の一人だった。

そのお父さんが、毎月のように長島愛生園に慰問に行っていた事を亡くなってから知った。社会や人々の無理解をはばかって、らい療養所に行くことを家族にも内密にしていたらしい。

お父さんは熱心なクリスチャンだった。以来、私は一度はその島を訪ねたいと思いながらも果たせずにいた。

ハンセン氏病というのは末梢神経がおかされ、顔や手足の先が崩れていく恐ろしい病気だとは聞いていたが、政府がこれほどまでに非人間的な強制隔離政策を率先して実施していたとは、正直言って全く知らなかった。

らいに感染していることがわかれば、本人はおろか家族までも村八分にされたり、本人の意思とは関係なく、断種、堕胎までも強制的に実行された。また、患者が愛生園で亡くなっても、家族が島を訪れることはなく、たとえ遺骨を引き取りに来たとしても、帰りに船の上から海に捨てられたという話も聞いた。そのため、患者の多くの人は家族に迷惑が掛かるのを気づかって偽名で暮らしていたという。

21世紀になって、時代が大きく変わろうとしている中で、小泉新首相が誕生し、ハンセン氏訴訟で国が控訴を断念した直後に、初めて愛生園を訪ねることができたのも、決して偶然ではないような気がした。

「私たちは生きていても良いんだ」と実感した。

牡蠣の養殖いかだが浮かぶ、のどかで美しい瀬戸内海の長島には、現在、五百名ほどの方々が住んでいる。ほとんどの人は病気が治り、社会復帰が可能なのだが、そのまま島に留まって暮らしている。

しかし、その人たちも高齢化が進み、大多数は在園期間五十年以上という。

 「まさか自分達が生きている間に、こんなうれしい日がこようとは夢にも思っていませんでした。国はてっきり控訴するとばかり思っていました。私たちは補償を望んでいるんではないんです。今回、国がハンセン氏病政策の間違いを認めた事で、生きていてもいいという『いのち』を認めてもらったと、やっと実感することができたのです。それがなによりもうれしい。この判決を知らずに、この島で死んだ3320名の仲間や先輩が眠る慰霊塔に、真っ先に報告して喜んでもらいました」

両眼を失い、後遺症のため顔かたちも崩れてしまわれた「田端明さん・81歳」の話を間じかに聞いて、胸がつかえて言葉をなくした。

らい資料館の中で、当時の長島愛生園の復元模型の上に、柵で囲われた保菌者居住区や監房室を見つけた時は、足がすくむ思いをした。

人間の原点にある差別の心

1873年にノルウェーの医師・ハンセンが、らい菌を発見、遺伝説は否定され、伝染力も極めて低いことが判明。戦後、新薬が次々と開発され、完治できるようになり患者数は激減した。

日本では平成八年にようやく患者の強制隔離などを規定した「らい予防法」が廃止されたが、社会の偏見はまだまだ根強く残っている。しかし戦後生まれの若い世代では、「らい病」という病気があることすら知らない人がほとんどで、今回の新聞報道で初めて「らい」のことを知ったというのが実情だ。

らい病という病気は、その後遺症の醜さゆえに古代から恐れられ蔑視されてきた。

人間が人間を差別するのを止める社会が本当に実現するのは、まだまだ遠い先のことかもしれない。せめて、今日見て感じたことを一人でも多くの人に伝えて行きたいと考えながら、長島愛生園を後にした。

(2001・6・10.母なる大地の会・石川洋先生の研修会に参加して)
 

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