私のあゆみ(2) :誕生

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誕生

 私は、昭和 26年(1951年) 12月26日、青森県の南東部の山間地、十和田湖の東北、八甲田山の南に位置する、大深内(おおふかない)村の熊の沢という集落に生れました。
 今は熊の沢は十和田市に属していて、十和田市の中心である三本木からは 12キロ余り(約3里)離れています。
 現在の十和田市は、昭和30年(1950年)2月に、三本木町、大深内村、藤坂村が合併して三本木市が誕生したのに始まります。同年3月には四和村が三本木市に加わりました。そして翌年(1951年) 10月、国立公園十和田湖にちなんで「十和田市」と名前が改められました。
 私が小さいころには、「十和田市」と言う呼び方にはほとんどなじみがなく、いつも「三本木」と言っていました。

 さて、熊の沢という集落は、奥入瀬川の枝流である熊の沢川沿いに点在しているいくつかの集落の一つで、当時は戸数 10軒ほど、人口はたぶん7、80人くらいはあったと思います。現在は戸数は約半分になり、人口は3分の1くらいになってしまいましたが、当時としてはそんなに小さい集落という訳ではありませんでした。
 私が生まれた時、母は 24歳、父は一つ上の 25歳でした。上には4歳違いの兄、2歳違いの姉がいました。そして、私をとてもかわいがってくれた 70歳くらいのお祖父さん(と私はずっと思っていたのですが、実は曾祖父さんでした)がいました。それから3年後に妹が生まれ、その2年後、私が5歳になって間もなく、お祖父さんが亡くなりました。当時の農村では珍しい、若い夫婦と子供たちだけの、いわゆる核家族になった訳です。今から思い返してみると、体の弱かった父、朝から晩まで働き詰めの母に代って、近所の人たちは私たち4人の子供たちをそれとなくよく看てくれていたように思います。
 当時、出産はふつう各家で産婆さんの助けをかりて行なわれました。産気付く直前まで仕事をし、出産後2、3日もすればまたふつうに働いていたようです。母もそんな感じでごく自然に私の出産をむかえたのでしょうが、この日はすでに雪がかなり降り積もっていて、馬橇(ばそり)で産婆さんを迎えに行っても、なかなか来てくれません。やむなく、生れそうな状態で2、3時間産むのを我慢していたと言います。(こういう話には、私の出産をすこし特別視したいという気持が影響しているかも知れません。実際よりも誇張されている可能性があるでしょう。)そして、ようやく生れた赤ん坊はとても大きくて、一貫目(約 3.75kg)もあったそうです。それなのに、母の言うには、普通は、そしてこれまでの出産でも、産婆さんは目も洗ってくれたのに、私の場合は目を洗わなかったそうです。(このような母の説明には、我が子が目が悪くなった原因をなんとかして見つけたいという心理がはたらいているかも知れません。)

 こんなふうに書いてきて、これを読んでくださっている方々にどの程度分かっていただけるのかなあと、ちょっと心配になってきました。私と同世代かそれ以上で、貧しい農村暮らしの経験のある方なら、その記憶を辿ってしばし幼少期にタイムスリップしてみれば、かなり良く分かっていただけると思いますが、若い方々にはちょっと遠い世界の話のように聞えるのではないでしょうか。そこで、ちょっと回り道になりますが、私が生れた当時の時代、土地柄、家族的背景などについて説明したいと思います。盲学校に入るまでの6年間過ごした熊の沢での生活は、盲学校での生活と対比する時とくにくっきりと浮彫りされ、また今でも私の志向の原点になっているとも思われるからです。

(2001年7月19日)