私のあゆみ(3) :背景(1) 生活

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背景(1) 生活

 まず、当時の生活振りはどんなものだったでしょうか。
 それは、ごくごく簡単に言えば、明治時代、もしかすると江戸時代とも基本的には大差のない生活だったのではないでしょうか。近代化される以前の生活だったと言ってもいいでしょう。
 私が生れた昭和26年といえば、占領期からようやく日本が独立し、国際社会に復帰しようとしていた時期です。全国的にみれば、たしかに、朝鮮戦争を契機に、経済的にも戦後の混乱期からなんとか自立的な復興へと向いつつありました。しかし、熊の沢のような東北の農村・山村では、そういう外部からの力にまだ直接曝されることはなく、昔ながらの自給自足的な生活が続いていました。近代化の大きな波に洗われるようになったのは、昭和30年代になってからのことです。

 エネルギーや材料は、電燈などごく一部を除き、ほとんど天然のもの、動物や植物を利用したものでした。
 たとえば、藁(わら:収穫後の稲の茎をほしたもの)はとても大切な生活材料でした。縄を綯(な)い、莚(むしろ)や俵を作り、草履や草鞋(わらじ)をあみました。土間には藁打ちのための石があり、木槌(きづち)で打っていました。その音とともにあの藁の匂いまでがよみがえってくるようです。縄を綯うなどの藁仕事はおもに冬の仕事です。
 私たちが寝る寝床には、まず藁を敷き、その上に薄いござのようなものを置き、そして薄い布団を敷いていました。藁はまた馬の餌にもなりました。馬小屋には敷き藁が敷かれ、それは最後には家畜や人の排泄物などとともに堆肥(たいひ)となりました。敷き藁や堆肥としての利用は今も行われています。
 私が懐かしく思い出すのは、長靴の底には藁を敷いていたことです。冬に裸足で長靴を履いても、とても温かく心地好いものです。雪などが入って湿ってくると、すぐ新しい藁に換えればいいのです。
 とにかく藁はまったくお金のかからない、もっともポピュラーな生活材料でした。

 農作業はすべて人と馬の力によっていました。田植えや稲刈りなどの時には、村の人たちが総出で順番に各家の田んぼの仕事をしてゆきました(これは「ユイッコ」と呼ばれていました。いわゆる「結(ゆい)」に当たるのでしょう)。脱穀には足踏み式の脱穀機が使われていました。(小屋には、もう使ってはいなかったと思いますが、「せんばこき」と言って、櫛の歯状に鉄の棒のようなものを並べ、それにひっかけて実を分ける器具もありました。)耕耘機(こううんき)や動力式の脱穀機が入ってくるのは、昭和33、4年以降のことです。
 馬は田畑を耕すばかりでなく、馬車や馬橇にも使われ、とても大切にされました。私たちの食事よりも馬などの家畜の餌のほうが先だとよく言われました。実際にそのためだったかどうかわかりませんが、しばしばお腹を空かせていました。
 農作物は米が中心でしたが、各種の野菜ばかりでなく、たぶん2毛作でムギも栽培され、またナタネやアズキなどいろいろな作物が植えられ、かなり自給できていたはずです。植物油はナタネからとっていましたが、砂糖は買うしかなく、とても貴重な品でした。甘い物はそれだけで美味しいと思いました。時々新聞紙に砂糖をそうっとまいて、それをはいつくばって嘗(な)めまわしたりした記憶があります(ちょっと動物みたいですね)。一時期ですが、綿羊を2頭くらい飼っていて、業者に毛を刈ってもらい、セーターにしてもらっていました。その他、鶏や豚や牛、ときにはヤギやウサギも飼っていました。また5、6歳くらいのころから5、6年間、蚕を飼うようになりました。蚕が一斉にクワの葉を食べる時の音や、あの冷たくすべすべした触感をよく覚えています。

 家はすでにたぶん50年くらいは経たような旧い大きな物でしたが、板の間しかなく、土間をはさんで「マヤ」と呼ばれる馬小屋につながっていました。畳をはじめて知ったのは、盲学校の寄宿舎に入ってです。板の間には囲炉裏とこたつしかなく、冬はやはり寒かったです。冷たさのあまり、素足で床を歩く時、しばしば爪立ちしながら歩きました(靴下を履くようになったのも盲学校に入ってからです)。

 燃料はもちろん薪と炭です。おじいさんがよく冬に備えて薪を作っていたのを思い出します。炭も冬近くなると山の炭焼き小屋に行って焼いていました。

 食事は、毎日ご飯と味噌汁と梅漬けが中心で、それにわずかの野菜や漬け物が付くくらいでした。肉はたまに年老いた鶏をつぶしてたべるくらいでした(私は、おそらく鶏をつぶす時のあの断末魔を連想するためでしょう、鶏肉を食べられなくなりました)。その他ごくたまに塩魚を食べるくらいで、とても質素なものでした。それだけに、正月やお盆の時の食事はとても豪華に思えましたし、彼岸の時のだんごも楽しみでした。夏の暑い昼には、よく残り物のご飯に冷たい水をかけて梅漬けとともにさらさらっと食べましたが、これがまた各別に美味しいのです(たぶん水が良いのでしょう)。
 今はもうほとんど無くなった食材に、「ほしな(干し菜)」「かんだいこん(寒大根)」「ほしもち(干し餅)」があります。ほしなは、たぶん大根などの葉だと思いますが、野菜の葉を干したもので、ほしなじるとして新鮮な野菜のない冬に毎日食べました。かんだいこんは、寒中に大根をまず2、3日川の水にさらし、たぶん高野豆腐などと同じように凍結乾燥させたもので、煮物や炒め物に使われました。ほしもちは、寒中に切り餅を凍結乾燥させたもので、おもに春から夏にかけての農繁期の携帯用の食べものになりました。かんだいこんとほしもちは私の大好物でした。

 ちょっと長くなってきましたが、とにかくそのころの生活は、土地と植物と動物に依存した生活、自然に支えられた生活であり、極端な言い方かもしれませんが、すべてのものが無駄なく最後まで使い切られていたように思います。今言うところの「リサイクル」が完全に行われていたわけです。(それに引換え、現在の十和田市の実家では、物が有り余っていて、なんと無駄が多いことでしょう。)

(2001年8月27日)