不読症って何?

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 最近、ますます耳慣れない新しい言葉を聞くようになりました。その中にはいわゆるIT関連の言葉も多いですが、私のパソコン等の条件とかなりかけ離れているようですし、それよりも、次々と新しい物を取り入れていくだけの時間も技術もお金も気力もないので、多くの言葉はそのまま素通りしてしまいます。
 ところが、つい1週間ほど前「不読症」という言葉に出会いました。デイジー(DAISY)関連の会議の参加者の報告の中で使われていたもので、これには興味をそそられました。
 ご承知の方も多いかと思いますが、まず念のためデイジーについて説明しておきます。 
デイジー(DAISY)とは、 Digital Audiobased Information System(デジタル音声情報システム)の頭文字を取った名前です(これって普通名詞だとヒナギクですよね、なんと素晴らしいネーミングなんでしょう!)。
 これまでのカセットテープを使ったアナログ録音に代わって、CD等を使ったデジタル録音のための国際標準規格となっているものです。私はデイジー図書を再生するプレーヤーを持っていませんので詳しくは分かりませんが、検索やジャンプなど、カセットテープでは難しかったことができて、使い勝手はいいようです。
 日本では、日本障害者リハビリテーション協会や全国の視覚障害者情報提供施設(点字図書館)が中心になって、デイジー図書の製作、再生機であるプレクストークの視覚障害者への配布等、その普及に努めています。
 上の説明からもおわかりのように、少くとも日本では、デイジーは主に視覚障害者の読書環境の充実という観点で考えられていました。ところが、先の会議参加者の報告によると、アメリカでは、デイジー利用者の半数以上が視覚障害者以外の人たちだと言うのです。そしてそのような人たちの中に「不読症」の人たちが多くいるようなのです。(ようやく本題にたどり着きました。)
 私は家に帰って早速手持ちの辞書類(広辞苑、大辞林、リーダーズ+プラス、日本大百科全書、世界大百科事典など)で「不読症」を調べてみましたが、どれにも載っていません。それで、広辞苑の後方一致検索で「読症」で調べると、「失読症」が出てきました。そして多くの辞書には「失読」あるいは「失読症」で載っており、英語の dyslexia あるいは alexia に当たるものであることが判りました。
・広辞苑の「失読症」の定義: 発声器官に異常がないのに、読む能力が失われる病的状態
・大辞林の「失読」の定義: 視覚障害や構音障害がないのに,文字や文章の音読が不能となる状態

 これらの定義は「不読症」という熟語から想像される内容とほぼ一致しますので、おそらく「不読症」という言葉はこれまで「失読症」と呼ばれていたものの別の言い方だろうと推察できました。
 さらにインターネット上で検索(goo)してみると、失読症では 100件近く出てくるのに、不読症ではたった3件しか出てこず、それもいずれもデイジーがらみの文脈でした。
 これらのことから、「不読症」と言う言葉は、最近デイジーなどいわゆる情報障害関係の分野で「失読症」と言う言葉に代わって用いられるようになったのだろうと推測されます。

 この「失読症」から「不読症」への変化には、たんなる言葉の言い換えでは終らない何かがあるように思うのです。以下、それについて気が付いた事を2、3書きます。
 まず第一に、これは私の個人的な語感なのかもしれませんが、「不読症」のほうが「失読症」よりも病的なニュアンスが薄まっているような気がします(日本語の「失」と「不」、英語の dys- と a- の違い)。そして「不読症」のほうが、簡単に「学習障害(LD)」、さらに「情報障害」といったより広い概念に結び付けられやすいように思います。
 ここでのポイントは、知的には正常(あるいはしばしば普通以上)であるにもかかわらず、何らかの理由で文字を(音声に置き替えて)読むことに障害がある、ということです。そして、このように考えることで、デイジーおよびそれと連携した技術(SMIL)は、数の上では視覚障害者をはるかに上回る人たち(人口の数%)を対象にすることができるわけです。
[SMIL(スマイル): Synchronized Multimedia Language. 文字・音声・画像情報を効率的に結び付けてシンクロ(同期)させる技術で、 1998年に国際標準として成立。]
 次に、「不読症」の一部の要因に、各言語における文字と発音との関係があるかもしれない、ということです。
 Nature の BioNews 2000年1月5日付の「見た通りに読んでごらん」という記事によれば、音読のスピードは、イタリア人のほうがイギリス人よりもつねに速いそうです。その理由は、綴りと発音の関係が複雑な英語(音素 40種、文字素 1140種)のほうが、その関係が単純なイタリア語(音素 25種、文字素 33種)に比べて、いわば機械的(非語彙モジュール)にではなく、その語の意味や文脈に照らして(意味モジュール)発音しなければならないからです。日本語の文章では、その読みは語の意味や文脈に英語以上に依存しているように思います。(これにたいし、日本語の点字は機械的に読むことができます。)おそらく、他の条件が同じならば、日本語は不読症ないし〈学習障害〉的症状が顕れやすい言語ではないでしょうか。
 さらに、少し文明論的な話になりますが、このような動きは、文字中心の社会・文化構造から、マルチメディアを基本とする社会・文化システムへの移行という、大きな流れの一部として把えることも大切でしょう。
 言うまでもないことですが、人類の歴史は、文字の発明により、それまでの主に音声によるコミュニケーションを基本とする単純な社会から、文字に依って秩序が伊持されていく、より複雑で大規模な社会へと変わっていきました。古代においては、文字を独占し統制できる者が支配階層を成し、また近代においても、文字の読み書き能力が社会への実質的な参加要件になっていましたし、現在でもなおそういう傾向は残っています。(だからこそ、見えない人の文字・点字の発明、そしてその文字としての市民権の獲得は、このような社会にあってはきわめて重要なわけです。)一部の例外(アインシュタインやエジソンのように、〈天才〉と言われる人の中には、子供時代に不読症ないし学習障害的な経歴の持主もいます)を除いて、これまでの社会では読み書き能力の劣る人は能動的な参加者に成りにくかったと言えます。デイジーやスマイル等の技術は、そーいう人たちが社会に参加していくための基盤的な技術になるかもしれません。
 さらに付言すれば、インターネットの普及が情報格差(デジタル・デバイド)により新しい弱者を生み出すという議論もありますが、デイジーなども含めたマルチメディアや機械翻訳の技術の進歩により、読み書き能力の低い人も含めより広範な人々が自由に社会に参加できるようになるでしょうし、またそのような方向に向かうよう政策的な誘導も必要でしょう。これは、これまで社会の支配的な位置に在った人たちにとっては一種の脅威と成り得るでしょうし、その意味で一つの革命と言えるかもしれません。
 ついつい話が広がり過ぎました。いつもは新しい言葉の洪水にほんろうされているような感じですが、今回の「不読症」では、私自身新たな発見もあり、いろいろ考えさせられました。
●参考URL
・The Challenged とメディアサポート19(NEWMEDIA 1999年3月号)
 http://www.prop.or.jp/clip/9903new.html
・見た通りに読んでごらん(Nature: BioNews 2000年1月5日)
 http://www.naturejpn.com/newnature/bionews/bionews000105/bionewsj-000105g.htm