ある視覚障害者のハンセン病とのかかわり――ラジオ深夜便「心の時代」より

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ある視覚障害者のハンセン病とのかかわり――ラジオ深夜便「心の時代」より

■はじめに

 私は調子が良ければ早朝2〜3時台に起きて、パソコンを立ち上げ色々な作業をしています。そしてしばしばちょっと休憩ということでラジオ深夜便を聞いたりします。
 7月の初めころですからもう2ヶ月ほど前になるのですが、ラジオのスイッチを入れたら4時台の「心の時代」が始まったところで、なんと偶然にもIさんのお話を聞くことができました。

 実は、昨年末くらいから、ハンセン病訴訟の裁判の成り行きも気にしながら、ハンセン病に関する新聞記事や本、資料などを少しずつ読んでいました。でも、すでに1世紀にも及ぶ国のハンセン病政策の下、とくに世界的には隔離の必要はないとの認識が拡まりかけてからもなお半世紀にもわたって、ハンセン病者が置かれた状況を知るにつけ、私の心はどうしてもその事実を十分に受け止めることはできませんでした。どう考えていいのか、どのようにかかわっていくべきか、方向がみえてきません。(このページの最後に、いちおう、私が読んだ主な本と、とても参考になった Web上のページを紹介しておきました。)知れば知るほど、ますます心の負担はおもくなるといった感じでした。
 私がハンセン病のことを知ったのは、高校のころ、理料科の中のたぶん病理学でだったように思います。皮膚を中心とした重い病気、というくらいの認識だったでしょう。(感染力のこと等はとくに考えてなかったように思います。)同じころ、函館在住の点訳者と文通していたのですが、その方が青森の松丘保養園に慰問に行ってきましたと書いていました。そんな近くに(当時私は青森の盲学校にいました)ハンセン病の療養所があることを知りちょっと驚きました。
 その後、大学に入って間もなく、神学部で夏のワーク・キャンプで長島愛生園に行く人を募集していることを知りました。興味があり問合せてみましたが、ほとんどが道路補修で、交流とかはとくに計画していないということで、結局行きませんでした。
 私とハンセン病との接点(と言えるかさえあやしいのですが)はそれくらいです。あとは、神谷美恵子の本を読んだり、岩下壮一の話しを断片的に聞いたりしたことがある程度でした。
 そんななか、Iさんへのインタビューに出逢いました。もうインタビューははじまっていたのですが、あわててカセットに録音しながら聴き入りました。その語り口といい内容といい、人を惹き付けずにはおかないものでした。私の重苦しかった心も少し慰められました。雰囲気までは伝えられませんが、ぜひ皆さんにもその内容を知っていただきたいと思い、以下にインタビューの内容を再録します。


■Iさんのお話し

 聞きてのKさんは、以前第2放送の「盲人の時間」も担当されていた方で、盲人の文化や歴史にも精通した人です。
 Iさんは、現在もある視覚障害関係施設の理事長として御活躍中の方です。
 ●付きの小見出は、話しの流れが分りやすいようにと、私が付けたものです。[ ]内は私の補足的な説明です。Iさんのお話しは次から次へとながれるように続いていて、話しの意図がはっきり伝わるように文章化するのは難しかったです。
 なお、インタビューの後半はIさんの点字図書館活動などのお話しでしたが、それは省略しました。
 以下、インタビューの再録です。

●自己紹介

K:お年はおいくつになられましたか、いきなりお年からはいって恐縮ですが

I:昭和2年、1927年の生れですから、73歳になりました。老いを感じることがしばしばになりました。

K:お目を失ったのはおいくつぐらいの時ですか

I:先天盲なんです。私は白内障なんです。右目はほとんどゼロにちかくて、左目は指数30cmという視力です。 [指数は、指数弁のこと。指の数を数えられる距離で示す]

K:あまり物を見たご記憶というのは

I:ないですね。母親の顔も父親の顔も、今いっしょにいる女房の顔も、顔というのはいっさい分からないですね。ほとんど声でしか区別つかないです。
  7つの時に点字を覚え始めてから今まで65年になりますが、もうすべてが点字で生きてきた人間だと自分で思っています。


●人生を変えた『白描』との出会い
 [明石海人: 1901(明治34)年7月5日、静岡県浜松に生れる(本名・野田勝太郎)。沼津商業卒業後上京し、銀行勤務のかたわら画家を目指して画熟に通う。1923年結婚。1926年、2女の父になった時に発病。明石の楽生病院を経て、1932(昭和7)年、長島愛生園に入所。最初、俳句を作り、次いで詩、短歌へと進む。昭和10年頃から『短歌研究』『日本歌人』『文芸』などに短歌を発表、昭和13年1月発行された『新万葉集』には11首入選し、「現代万葉集の随一」と推賞された。失明のうえに、手足の麻痺、癩性の喉頭狭窄による呼吸困難、気管切開による発声障害にも悩む。1939(昭和14)年2月、改造者より歌集『白描』を出版、たちまち25万部のベストセラーになるが、腸結核で衰弱がひどくなり、同年6月13日、37歳で没する。]

K:いわば点字がかならず指先にあったご生活の中で、点字の本を読んでショックを受けたという本があるようですが、そのへんのお話からうかがいたいと思います。どんな本だったんですか

I:ちょっと長くなります。
  私は昭和2年生れですから、当然、昭和16年12月8日に勃発した太平洋戦争の時に、もっとも多感な、血の気の多い年頃だった訳です。血の気の多い時代に、私は無類の軍国少年、日本は大東亜戦争で立派な事をしているのだと思い込み信じ込み、それに自分の人生を賭けていたような軍国少年だった訳です。目が見えなくて初めて辛いなあと思ったのは、徴兵検査を受けた時に丙種不合格という判を押されて帰された時、国の役に立たなかったということで、すごく歯を食いしばって泣いた覚えがあります。
  戦後に自分を支えていたものが無くなってしまった、つまり、天皇の下に一致団結してこの国を、というような気持ちが崩壊してしまった後に、私の心にはなにも無くなってしまったんです。虚脱状態みたいな時期がありました。その時に、ひじょうに偶然だったんですが、友達が持っていた本で、おまえ、ちょっとこの本みてみろ、と言ったのが、実はハンセン病で視覚障害になられた患者さんである明石海人という人が出版された『白描』という本なんです。
  この『白描』を読んだその明くる日から、私は自分自身が、明らかに自分の人間が変わっていくなあというのを感じた、それほど大袈裟にと思われるかも知れませんが、本当に目から鱗が落ちたように、自分の生き方というものが分かってきた。私自身が生きるという意味をまったく見失ってしまった時に、彼の書いた『白描』の叙文の1字1句を本当に、朝晩お経を唱える宗教者のように、毎日読んでいました。なにも読まなくても全部言えます。
  [以下、『白描』の叙の暗誦です。まさに驚異ですね。なお、ラジオでの暗誦をそのまま文章化していますので、漢字などの使い方が原文と異なっていると思います。お許しください。また( )内に読みや意味を書きました。]

  癩は天刑である。
  加わる笞(しもと。刑罰具)の一つ一つに、嗚咽(おえつ)し慟哭(どうこく)しあるいは呻吟(しんぎん)しながら私は苦患(くげん。苦しみ悩み)の闇をかき捜って一縷(いちる)の光を渇き求めた。深海に生きる魚族のように自らが燃えなければどこにも光はない。そう感じ得たのは病が既に膏肓(こうこう。心臓と横隔膜の間)に入ってからであった。
  齢(よわい)三十を越えて短歌を学び、あらためて己を見、人を見、山川草木を見るに及んで、己(おの)が住む大地のいかに美しくまた厳しいかを身をもって感じ、昔年の苦汁をその一首一首に放射して、時には流涕(涙を流す)し時にはでんぶ(漢字が判りません。励ますの意)しながら肉身に生きる己を祝福した。
  人の世を脱(のが)れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
  癩はまた天啓でもあった。
  [暗誦はここまで]

  この最後の「天啓」でほんとうに胸打たれます。それは、癩は天の啓示でもあったという意味なんです。癩は天の刑罰であったと言った彼が、癩は天の啓示でもあった、おれは癩を通じて天から生きることを与えられた、そういう人生なんだ、とまで言い切れた彼の人生観の大きな移り変り、変遷が歌の1首1首に読み取れる訳です。
  確かに、私自身も生きるということはどういうことかについて初めて教えられた感じでした。

K:その歌集の第1頁目を開けますと、その3つめには、[以下に示す歌も、漢字や仮名遣いが原文と異なっていると思います。]
  「言もなく昇汞水に手を洗ふ医師のけはひに眼をあげがたし」

I:今お読みになられたすぐ後のほうに、
  「陸橋を揺り過ぐる夜の汽車幾つ死にたくもなく我の佇む」
  とか
  「待てり家妻に言うべかる数多はあれど一音に我が癩を告ぐ」
  それから、彼がどんなに辛かったろうと思うのは、癩の診断を受けて家へ帰って奥さんに話された歌に、
  「妻は母に母は父に言う我が病ふすま隔ててその声を聴く」
  いろんな意味での変見や誤解や、ある意味での虞・恐怖が綯い交ぜになったようなこわい病気として、大正時代や昭和初期にはおそらくもっとも恐れられた病気、したがって〈隔離〉が至上命令になった病気だけに、彼の受けた打撃はすごく大きかったろうと思う。
  やがて彼が家を捨てて行く前に奥さんと別れる時の歌に、
  「さらばとてむづかる吾子(あこ)をあやしつつつくる笑顔に妻を泣かしむ」
  があるが、どんな心境だったのだろうかと、本当に今でも胸をうたれる思いです。
  痛さとか苦しみと同時に、自分にたいする言うに言えない悲しさみたいなもの、どうして俺だけが、というようなものがきっと彼にもあったろうと思うんです。何故私がこの境涯を生きなければならないのだ、と。私もずっと青春からこちら、何故ぼくはこんな目の見えない、選ばれて、何故何故、ずいぶんそれを疑問に思って生きてきた時代があっただけに、すごく胸をうたれた。

K:今はもう完全に治る病気として、なんら恐れることのない病気になったんですけど、当時はいわば日本の血を汚す病気であるというような意味から、強制的な収容という手段が採られていたんですね。

I:癩の療養所を、ある人は一つの国にたとえるわけです。
  この国は、面積こそ小さいけれども、間違いなく一つの国である。なぜならば、出て行く時も入って来る時も、出国入国の手続きが要る所なのだ。この中にはこの中だけで通用するお金、金券がある。その金券は他所の国、ここから出て行っては使えないんだ。これらは、一つの国そっくりだ。
  ただ一つ違うのは、あらゆる国が発展、充実、国民の幸せ(長生きや幸福の追求)が目的なのだが、この国でだけは、死だけが待たれる最高の行く所であって、したがって宗教が非常に重んぜられた国なのだ。他国と違って、宗教だけが拠り所となる世界なのだ。亡びることを待たれる世界、繁栄を待たれるのではなく滅びることを待たれる国が、この癩療養所だったのだ。このように書いた本があります。


●長島愛生園訪問
 [長島愛生園: 日本最初の国立の癩療養所として、 1930年に創立。長島は、岡山県南東部、瀬戸内海上の小島で、当時は無人島。翌年から 1957年まで、戦前から戦後にかけての日本のハンセン病政策(強制隔離)の中心的人物の1人とも言える光田健輔が園長を務めた。]

K:この本を読まれたことを一つのきっかけとして、深くハンセン病の方たちとのかかわりをお持ちになっていった訳ですね。

I:じつは、長島愛生園の中から、昭和27年だと思いますが、名古屋盲学校、私が行っていた盲学校に1通の手紙がきました。その手紙に書いていることは、簡単に言いますと、島には目の見えない患者さんがたくさんいる、この人たちは完全に一般社会から隔離されている、私たち、つまり患者さんたちと同じ目の見えない人たちと直接生の声で文通したい、というものだった。その手紙の最後に、今でも忘れられないことが書いてありました。この手紙を読むとあなた方の中には病気が移るかもしれないと心配する方がいるかもしれない、だけど愛生園から出る手紙は24時間のホルマリン液による消毒が行われる、だから日本で一番きれいな手紙が届くんだ、ご安心なさってください、ということが書いてありました。
  長島愛生園には、明石海人を通じて、身にしみるほど自分の心のふるさとみたいな意識を持ちはじめていたものですから、文通し始め、それがご縁で未だに、ということになっている訳です。

K:明石海人を入口にして、多くのハンセン病で盲になった方とのおつきあいが始まった、と言うことですね。

I:初めて長島愛生園に行ったのは、文通を始めた翌年、昭和28年の正月のころでした。夜行列車で朝の5時ごろ岡山につき、2時間半バスにゆられて、邑久町虫明に着きます。ここに愛生園へ渡る港があります。一般の者が乗る船と患者さんが乗る船が別れているのですが、その時船頭さんが「君らは〈清潔地帯〉のほうへ行くんだ、患者は〈汚染地帯〉へ行くんだ」と言ったのには不愉快な思いをしました。
  もっと不愉快だったのは、はじめて親友とも思っていた何人かの患者さんとお目に掛かる時がきて、面会室だと思って行ったら、金網が張ってあって、向こうとこちらに分けられていたことです。とてもショックを受けました。私自身はハンセン病が感染症だという気持ちがぜんぜんなかったと言えばうそになりますが、ただすごく微弱でそうとう頻度の高い接触でもないかぎり移らないということは看護婦さんからもきかされていたものですから、そばで肩くらいたたきあって話しができるかと思っていたら、できなかったことは非常にショックでした。しかし金網があっても心は通じますので、その点は我慢しました。そしたら看護婦さんもいいでしょうということで、直接会えるようになりました。その時も事務局のほうから、次の4つは守ってくださいと注意がきました。1、絶対に患者の家に入らない、2、患者から食べ物はいっさい受け取らない、3、会う時間は 15〜30分を限度にする、4、できるだけ日当たりのよい所で会う。看護婦さんがそれを聞いて、だって私たちいつも手をつないで歩いているのよ、移った人なんか1人もないんだ、と言って私たちにあかるく笑いかけてくれて、すごく救われた感じがしたのを今でも覚えています。
  実際にお会いしてつくづく思ったことは――この人たちは隔離されて一般の社会に戻るということはたぶんないのではないか、それでいて、生きることに懸けている彼らの情熱・心情の強さに驚かされました。希望がまるっきり無いと私たちにはみえてしまうような世界にあって、なおかつ、ある人は短歌、ある人は詩やエッセイを書くこと、あるいは宗教に打ち込むこと、色々な趣味に殉ずること、あるいは島の歴史や島における自分たちの生涯を書き残しておくとか、なにか一つの意味のある仕事を抱えてそれを貫徹させるために懸命になって生きようとする、その努力の素晴らしさ・尊さが話しの端々にでてきます。この人たちの前で言える愚痴はない、もし自分たちの問題(鍼灸やマッサージに将来性が無いとか)で愚痴を言うとしたら、それは彼らにたいしてすごく恥じ入らなければいけないとつくづく思わされました。
  1943年のプロミンの発見以後は、明かに治る病気、恐れることのない病気、感染力も結核などに比べれば問題にならないほど低い病気、というような事が世界の常識になりつつあり、患者さんがもっと自由に一般社会と交流できる機会があったはずでした。国の政策の中で、ハンセン病の実態を克明に正確に一般社会に報道することによって、その人たちと一般社会との間にある変見や誤解を取り除くことにもっと熱を入れていたら、彼らの社会復帰はスムーズに行ったろうなあと、それが今思うと非常に残念です。


●ハーモニカ・コンサート

K:Iさんは、まだまだそういう社会的認識が無い中でも、愛生園の皆さんを名古屋に呼んでハーモニカ・コンサートをされましたねえ。

I:あれは、昭和49年6月16日に名古屋市民会館の大ホールで行われました。長島愛生園に「あおいとり楽団」というハーモニカバンドがあって、その団員20人くらいとその関係者ふくめて40人くらい、それに石川県および名古屋の盲人だけで編成されている楽団を入れて演奏会をしました。はじめ売れ行きはまるでだめだろうと思っていたら、売り出しましたらもうたいへんな評判で、 2200枚以上売れました。ただあまり売って、来ていただいたのに席がないといけないということで、たいへん心配し、もし席がたりない時は我々はみな外へ出ようと覚悟していました。 1950人来ていただいて(満席は 1800)、すこし満員を超えました。
  中には、奈良や京都からハンセン病患者のいわゆるボランティア団体の方々がバスを仕立ててかけつけてくださったり、激励の電報もたくさんいただいたりして、すごく明るくって真心がいっぱい満ちた中でやれたので、本当に良かったなあと思います。
  ただ、患者さんの宿舎のことで実は名古屋でずいぶん苦労しました。ある宗教団体の方々の非常に熱心なご協力がもし無かったら、あの演奏会はできなかっただろうと今でも思っています。「お泊めするといっても、うちはこういう施設だから1人1人のお客さんをお泊めする旅館のような部屋はなくて、広い部屋しかないが、それでいいですか」と言うから「ぜんぜんかまいません」ということで、簡単に話しがつきました。その宗教団体に所属している方々、婦人部とか青年部の本当に素晴しいの一語に尽きるご協力をいただいて、患者さんたちもとても喜んで泊めていただき音楽会ができました。これは、音楽会自身の盛大さの陰で、私が知り得た心の収穫の一つでした。

K:ハンセン病の方々はどうしても関節を患ってしまって、指関節が不自由なためにハーモニカを自由に持てない、だけれどもハーモニカを吹くのだ、吹かなければ、ということで、いろんな道具や補助具を使い、自由に2本3本のハーモニカを吹き分けていらっしゃる、その姿を、私は当時おじゃまして拝見して番組にしたことがありますので、今でも覚えています。あの努力には見えた方々も感動していました。


●正しい報道と正しい理解

I:古里に帰ることを拒否され、本当の名前が名告れないことで、精神的な苦痛をずうっと背負わされている人がたくさん居るということは、一般の方に本当にご理解していただきたいと思います。日本社会におけるハンセン病に対する偏見は根深い、その大きな原因は、残念ですが、ハンセン病についての正しい報道がなされていなかったからだと思います。
  ハンセン病だけでなくて、私たち目の見えない者についての情報にしても、一般の社会には正確な情報が流れていないことが多いと思います。一例を挙げれば、盲導犬の情報をみていると、たいてい多小ロマンティックで、盲導犬が万能犬みたいに紹介されて、実態がなかなか一般の社会に通じていない。それと同じように、それ以上に、ハンセン病の方々の実態は伝えられていないのが現実です。


●心のバリアを取り除く

I:目が見えないという事は、不便です、不自由です。でも、皆さんがお考えになっているような不幸ではないと私は思う。不幸かどうかはその人が決めることなのであって、目が見えないだとかハンセン病だとかが不幸を決める決め手にはならない。幸か不幸かはその人の生き様とその人の生きる信念が決めることです。不自由である、不便であることは否定できませんが、どうかそれがイコール不幸につながるんだという考えだけは一般の人たちに捨てていただきたいです。
  日本の社会では、この考えがすごくバリアになっていると思います。不幸だということで、善意の人はやたらに同情と憐憫のかたまりになってしまうし、劣等視する空気も出てきますし、さらには、あれもこれもしてやらなければならない存在、健常者の側が負担を感じなければならない人種だというような意識にもつながってくると思います。不便と不自由を庇っていただくことは私たちたいへん有り難いと思います。ですが、不幸と決められて社会的な存在を続けなければならないとしたら、これほど惨めなことはない。逆に言えば、盲人の不幸は、じつは盲人自身ではなくて、皆さんが不幸と決めてかかっているところに在る。たとえば、道を歩くにしても、みんながちょっと声をかけてくださる親切が一つあれば、不便と不自由のほとんどは解決してしまう。そういうところがなくて、ただ[音響式の]信号機を付けたとか足元に点字ブロックを付けたらそれで済んでしまうというのでは本質的に間違っていて、その前に、心のバリアを日本の社会から取り除いていただかねばならない。

  ハンセン病の方々もたいへんなバリアの中で生きてきたと思います[この「たいへんな」をとても強調していました]。このバリアから彼らが全くの意味でフリーになって生きていく日々を過ごせるのかどうかと思うと、彼らにすごく申し訳ないなあ、ぼくも一般社会に生きている一人としてやはり加害者だったのかなあ、と時々自分自身を責めることがあります。被害者が何十年にもわたって歯を食いしばって我慢してきたことを加害者がどれほどの痛みとして自分の中に受け止めているか、と考えます。もっと心の交流に国自身も教育機関も何もかもが[力を入れるべきです]。
  最近奉仕を教育の中に取り入れるとか言っていますが、奉仕じゃなくて、もっとお互いが近づき合って手を握り合える時間にしてほしい、交流の時間が必要だと私は思います。奉仕というのはいつでも、してやる側としていただく側に別れてしまう危険性がすごくあるし、そういうことをどこまで国の方々がわかっているのでしょうか。ぜひ奉仕ではなくて交流の場を育ててほしいなあと思います。そうでないと、いつまで経っても障害者は奉仕される側に立ってしまって、いつまでも皆さんと平等な立場でものが言えない、お話しもできないということになってしまう。このたびの判決を見ても分かる通り、国が今までしてきた失敗、過ちを正すことはもちろん、それと同時に、広く障害者問題についてもそういうバリアがあり、そういう[心の]バリアを取り除くことなくして、ただ物をいたずらに与えることだけで解決しようとする考えは直していただきたいと思います。

K:そういうバリアを取り除くというのが、明石海人に学ぶIさんの人生の一つのバックボーンであるかも知れませんね。

I:私自身が海人から得た最大のもの――無という状態に立たされた自分自身の中に、限りなく意味と価値を見出すために彼がどれだけ苦悩したか、どれだけ闘ってきたか、またどれだけ周りの人の理解を求めようとして努力したか、その記録が『白描』だと思いますので、その白描を通して私も、どれだけ周りに理解をいただけるか、みんなといっしょに歩けるか、そういう考えで人生を生きていかなければいけないなあと思います。

(インタビューの再録はここまで)


■おわりに

 私がこれ以上くだくだと説明する必要はないでしょう。ただ、私が特に感じたことを少し書きます。
 ハンセン病の方たちと深い交流を持ち続けているIさん〈でさえ〉(もしかすると〈だからこそ〉なのかも知れません)、社会を構成する1個人として加害の責任を強く感じています。Iさんの共感能力には心打たれます。それと同時に、ハンセン病訴訟は直接には国の責任を問うたものですが、日本社会がハンセン病者を排除してきた事実からして、それは社会全体、それを構成する1人1人の反省もうながしていると思います。
 またIさんは、病気や障害のある人たちの不幸の原因は社会の側にあると言い切っています。そこには、一般社会の人たちと病者・障害者との想いのずれ、乖離を見て取れます。たとえば、一般には「救癩の父」と呼ばれ文化勲章まで受けた光田健輔は、ハンセン病者からは強制隔離やワゼクトミー(精管切除による断種)等いわば撲滅政策の推進者としてもっとも批判されました。同じようなことは、程度の差はありますが、これまでの障害者対策などにも見られます。(もちろん、すべてを否定しているのではありません。)
 最近はよく「共生社会」と言われますが、もし共感能力を欠いたままならば、それはただの「雑居社会」にすぎません。他の人の気持ち、境遇や痛みを感性的にも知的にも理解できる共感能力は、おそらく、倫理感ないし正義感の原点・基礎となるものです。現代の様々な問題状況を見るにつけ、共感能力を育成するためにも、幼児期の自然や動植物とのつながり、家族関係や学校教育の見直し等を強く感じます。


■主な参考図書と URL

 私が(点字で)読んだ主な本およびとても参考になった URL を紹介します。

『証言・日本人の過ち ハンセン病を生きて−森元美代治・美恵子は語る』藤田真一編著、人間と歴史社、1996
『人生に絶望はない ハンセン病100年のたたかい』平沢保治著、かもがわ出版、1997
『忘れられた生命 ハンセン病療養所の人々』仲川幸男著、葉文館出版、2000
『火花 北条民雄の生涯』高山文彦著、飛鳥新社、2000

ハンセン病国賠訴訟「熊本一審判決」(判決全文は、長文ですが、資料に基づいた明解な分析で、正に歴史的文書と言えるものだと思います)
 http://homepage1.nifty.com/lawyer-k-koga/newpage3-13hanketu.htm
「 Etoile 」のHome Page!! (「日本におけるライ対策とハンセン病政策」という卒論が読めます。資料も充実しています)
 http://homepage2.nifty.com/etoile/index.html
ハンセン病資料館
 http://www.hansen-dis.or.jp/hansen_content.html


(2001年9月9日)