南山大学人類学博物館――ユニバーサルミュージアムを触れて満喫――

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 昨年11月23日と今年1月6日に、南山大学人類学博物館に行きました。
 昨年10月に同博物館がユニバーサルミュージアムとしてリニューアルしたということで、11月23日に私も参加しているユニバーサルミュージアム研究会の皆さんと一緒に見学しました。文化財として指定されている物以外のほとんどの展示品に直接触れることができます。また、多くの展示品は固定されていますが、それを取り外して直接手に持って触察したり、あるいは大型の物は自分の身体の前に移動してもらってじっくり触ることもできます。展示台は机タイプになっていて、そこで椅子に座りながら時間をかけて触察したりまたメモを取ることもできます。この机タイプの展示台はたぶん車椅子使用者にとっても適していると思います。さらに、多くの展示品にはそれぞれその名前や収集地を点字で書いたラベルが紐で結わえられています。また、各展示コーナーにはその展示解説が点字でも用意されています。
 資料も、ヨーロッパの旧石器から日本の縄文・弥生・古墳時代などの考古資料、タイ西北部・ニューギニア・オセアニアの民族資料、さらに昭和の家電製品など、多彩かつ豊富です。11月23日は2時間近くかけて全体をざっと触りましたが、とても触り切れないし記憶にも残りそうになかったので、1月6日に1人で見学に行くことにしました。1人で行く場合はもちろんルートが分からなければならないのですが、同博物館のホームページには、最寄駅の名古屋市営地下鉄名城線「八事日赤駅」から大学正門までのルートが地図ばかりでなく言葉でも詳しく書かれており、1人で出かけるのにはたいへん助かります(私は正門までは1人で行って、そこで博物館に電話して迎えに来てもらい、そこからは博物館の方に案内してもらいました)。博物館には10時過ぎに到着、考古資料と民族資料について、昼休みを除いてほぼ5時間くらいかけて触りました。まだまだ触っていない資料も数多くあるようですし、もっと丁寧に触り直してみたい物もありますが、以下に2回の見学で私なりに知り得たこと・感じたことをまとめてみます(昭和の家電製品については、11月23日にちょっと触っただけで1月6日にはまったく触る時間がありませんでしたので、今回は割愛することにします)。
 
◆ヨーロッパの旧石器時代資料(マリンガーコレクション)
 神言会(1875年にドイツのアーノルド・ヤンセンが創設したカトリックの修道会)の神父として、1952年から1959年まで日本に滞在したヨハネス・マリンガー(Johannes Maringer)によるコレクションです。ヨーロッパの旧石器時代の石器を中心とする多くの資料です。私はヨーロッパの石器、それも旧石器時代の石器に触れてみるのは初めてでしたので、とても興味を持ちました。
 
●ハンドアックス
 アシュール文化期の35万年前ころとされるハンドアックス(握槌・握斧)が多数展示されていました。
 アシュール文化は、アフリカからヨーロッパ、西アジアにかけて広く分布する前期旧石器時代の石器文化で、アフリカではすでに150万年前ころから始まり、またヨーロッパでは70万年前ころから始まって少なくとも30万年以上続いた文化のようです。これらのハンドアックスは、アシュール文化の末ころの時代ということになるでしょう。
 大きさは、長いほうが10cm弱くらい、短いほうが5cmくらいのものが多かったように思います。表面は全体につるうっとした断面がいくつも連なっていて、両側や先のほうにやや鋭い稜もあります。つるうっとした断面は、一部貝殻面のような所もあって、黒曜石のような手触りのようにも感じますが(色は黒ではなく灰色っぽいそうです)、エッジはそんなに鋭くないので何の石か疑問です。後でこの石の種類について博物館に問い合わせてみたところ、これはフリント(チャート)だということです。チャートは、黒曜石のようには珍しい石ではないので手に入れるのは簡単だったでしょうが、かなり硬い石なのでこのような形に加工するにはそれなりの技法が必要だったように思います。名前の通り、片手で握るのにちょうど良い大きさです。この硬い石器をどんな風に使って何をしたのでしょうか、たたき付けたり、こすり付けるようにしたりして使ったのでしょうか?それを想像させるような手掛りはとくにありませんでしたが、もっともっと詳しく知りたくなります。
 展示台の上のほうには、10cm余ある大き目の石器があって、これには原石の表面の一部がそのまま残っていました。原石を別の石でたたいて打ち割ったのでしょう、原石の表面と打ち割られた断面の手触りはまったく違っています。薄く割り剥がして行くような加工の技法がなんとなく想像されます。
 アシュール文化期の人たちは、現在の人類、ホモ・サピエンスとは異なった種のホモ・エレクトゥス(直立するヒト、原人)だったということです。この人たちが、どのような環境のもとでどんな生活をしていて、何のためにどのようにしてこのような石器を作ったのか、とても興味あるところです。
 
●ピテカントロプス・エレクトゥス(ジャワ原人)の頭部の復原模型
 隣りには、このころの人の姿を化石から想像で再現したピテカントロプス・エレクトゥスの頭部の実物大の像がありました。顎が突き出し、鼻がやや上向きで横に広がったような感じがなんとも印象的でした。両頬のあたりがやや窪んでいて、その上下(目の下と顎の横)が出っ張っています。たぶん顎の力が強くて下顎を動かす筋肉が発達していたのでしょう。
 この模型に近い人たちが、上のような石器を使っていたのでしょうか。
 
●ソリュートレ文化の石器
 ヨーロッパの後期旧石器時代のソリュートレ文化(2万2千年〜1万9千年前ころ)の尖頭器や掻器や石核がありました。
 尖頭器は5〜7cmくらいの長さで、先が槍のように鋭く尖っているのもありました。獣を突き刺すのに使ったのかもしれません。掻器(スクレイパー)も先がやや鋭くて、肉などを切ったり剥ぎ取ったりしたのでしょうか。石核は、高さ3〜4cmくらいの円錐台に近いような形で、側面にはいくつも削り取ったような窪んだつるつるの面があります。原石を、剥片を取りやすいようにあらかじめ加工したうえで、それからいくつも石器の材料となる剥片を打ち割り取り、その残った部分が、この石核だということです。また、製作途中なのでしょうか、形があまり整えられていないような剥片と思われる物もありました。このような石器製作法は「ルバロワ技法」と呼ばれるもので、すでに中期石器時代のネアンデルタール人が使っていた技術のようです。
 
●マドレーヌ文化の石器と像
 ヨーロッパの後期旧石器時代末のマドレーヌ文化(1万9千年前〜1万2500年前ころ)の石器と骨を加工した像です。
 細石刃のレプリカが多数ありました。長さ1cmくらい、幅3mmくらいのものです。一部には、とても細かいぎざぎざの刃がはっきり触って分かるものもあります。(ただ、樹脂製?のレプリカなので、帯広百念記念館で触った本物の黒曜石の細石刃のような鋭さはまったく感じられません。)これも、石核から剥ぎ取る手法で一定の形のものを大量に製作していたということで、技術の高さを思わせます。このような刃をいくつも骨や木の棒の先の溝に植え込んで、獣を突き刺したのでしょう、とても殺傷力の高い武器になったと思います。
 そして、これもレプリカですが、骨を細工して作ったイモリ、馬、および女性の像がありました。いずれも長さ10cm弱です。イモリは細い棒のようでよく分かりませんでしたが、馬は細い棒の先に馬の顔がはっきりと表現されていました。骨の先の関節の丸い部分を加工したのだと思います。女性は、するうっと伸びた2本の脚の上にお尻と思われるふくらみの部分があり、その上にさらに胴が続いていました。有名なラスコーやアルタミラの洞窟絵画も、このマドレーヌ文化に属するということです。
 
 私が実際に触ったのは以上3つの文化だけですが、点字の展示解説にはこのほかに次のような文化が記載されていました。
・クラクトン文化:ヨーロッパ北部の前期旧石器時代に属する石器文化で、40万年前にさかのぼり、アシュール文化と並存。イギリスのエセックス州のクラクトン・オン・シー(Clacton‐on‐Sea)遺跡を標識とする。
 タヤク文化:中期旧石器時代の石器文化で、大型の厚い石器はムスティエ文化と似ているとされる。フランスのドルドーニュ地方のミコック(Micoque)岩陰の2枚の層から出土した剥片石器文化。
・ムスティエ文化:中期旧石器時代の石器文化で、9万〜7万5千年前から3万5千年前まで続く。ルバロワ技法を用い、剥片を素材とした尖頭器や削器を特徴とする。1908年、フランスの西南部のル・ムスティエ(Le Moustier)の岩陰でネアンデルタール人の人骨と化石とともに発見された。
・オーリニャック文化:後期旧石器時代の文化で、3万年前ころから始まる。石刃を素材とした物が特徴で、洞窟絵画や骨角器も多い。フランスのピレネー地方のオーリニャック(Aurignac)遺跡を標識とする。
・グラヴェット文化:ヨーロッパの後期旧石器文化で、オーリニャック文化に含まれたこともある。日本ではナイフ形石器と呼ばれる、一側縁に刃潰し加工をしたグラヴェット尖頭器を特徴とする。
 これらの文化についても、次回の見学ではぜひ実際に触れ、また解説してもらいたいと思っています。(なお、私が今回触ったアシュール文化はクラクトン文化の前、ソリュートレ文化とマドレーヌ文化はグラヴェット文化の後に位置することになります。ちなみにアシュール文化より前には、一方を打ち欠いただけの礫石器であるオルドワン石器があります。)
 
◆日本の考古資料
 展示の中心は、グロート氏、および彼が設立した日本考古学研究所の収集した資料です。
 1931年、神言会の宣教師としてオランダのジェラード・グロート(Gerald J. Groot: 1905〜1970年)が日本に着任、各地で布教活動をするとともに、日本の先史時代や考古学に興味を持ち、戦前から縄文遺跡の発掘も行います。戦中は抑留もされますが、戦後すぐ、1946年9月に日本の研究者とともに千葉県市川市に日本考古学研究所を設立してその所長となり、千葉県や茨城県の縄文遺跡を精力的に発掘し、資料収集とともに報告書なども刊行します。グロート氏は1952年にヨーロッパに移り、その後任として来日したのが先のマリンガー氏です。彼が所長に就任すると「考古学研究所」と改称され、発掘などの活動はほとんど行われなくなります(彼は南山大学社会科学部人類学科の先史学の教授を兼務)。1959年、マリンガー氏の帰国により考古学研究所は解体され、大半の収蔵資料は神言会が経営する南山大学人類学研究所に移管され、その後同大学人類学博物館で展示・収蔵されることになります(以上詳しくは、「歴史わが町 地下に歴史を垣間求めて 縄文時代のいちかわ」を参照)。
 
●花輪台式土器と土偶
 まず初めに触ったのが、縄文早期(たぶん8千年くらい前?)の花輪台式土器(茨城県北相馬郡利根町花輪台貝塚出土、1946・48年調査)です。いくつか破片や復元品がありましたが、底が細くなっているのが特徴のようです。破片を組合せて復元した物は、高さ20cmくらい、上の口縁部の直径が20cmくらいでした。模様ははっきりとは分かりませんでしたが、一部ぶつぶつしたような細かい模様のある破片もありました。
 ここには、小さいですがとてもバランスの良い土偶がありました(これは日本で最古級の土偶のようです)。全体は、幅3、4cmくらい、高さは5、6cmくらいで、下半分は台形のような形で、その上に十字のような形が乗ったような形状です。そしてその十字形の所に水平に胸のふくらみが2つ並んでいます。きっとバランスが良いためなのでしょう、とても人気があるようで「花輪台のヴィーナス」とも呼ばれ、2009年に大英博物館の「THE POWER OF DOGU」展に展示されたこともあるそうです。
 その他、早期の土器としては、野島式土器(横浜市金沢区)、入海(いりみ)式土器(名古屋市東浦町)もありましたが、これらも底が細くなっていました。入海式土器は、高さ35cmくらい、口縁部の直径20cm余で、上のほうには4段になったはっきりとした凸模様が触って分かりました。また、黄島(きしま)貝塚(岡山県瀬戸内市牛窓町)出土の土器の破片がいくつかあって、これは押型文がとてもよく触って分かるものでした。
 
●加曽利E式土器
 縄文中期の土器としては、木ノ内明神貝塚(千葉県香取市木内宮前、1947年調査)出土の加曽利E式土器がいちばん印象に残っています。復元された加曽利E式土器3点に触りましたが、どれも、高さと同じくらい口の直径が大きくて、どっしりした感じを受けます。とくに私が気に入ったのは、口縁の上にさらに、吊り手のような大きな飾りのようなのが、前後左右4箇所に付いているものです(ちょっと火焔土器も想像しました)。口縁部の高さは、低い所が35cmくらい、前後左右の飾りの付いた高い所は50cmくらい、直径は30cm余くらいです。外側面には縦に紐のようなのがうねうねと伸び、上のほうは渦巻きのようになっている所もあります。加曽利E式の土器は、縄文時代中期末(4500年前くらい?)以降関東一円に広がっていたようです。
 中期の勝坂式土器も触りごたえがありました。これも復元品が数点ありましたが、1つは高さが30cm弱、上の口縁部の周長が80cmくらい、下の底の周長が60cmくらいです(手製の、点の連続した紙製の巻尺のようなのを持って行き、測りました)。表面に粘土紐をダイナミックに張り付けたのでしょう、楕円や小判型など大きくいろいろな形が浮き出しています。
 その他、縄文の土器としては、堀之内貝塚(千葉県市川し、1946年調査)出土の堀之内式土器(縄文時代後期前半)に触りました。模様は触ってよく分かりませんでしたが、高さ32、3cm、口縁部の直径が27、8cm、底の直径が10cmくらいでした。
 
●遠賀川式土器
 弥生の土器もいろいろありました。
 まず、高蔵遺跡(名古屋市熱田区)出土の遠賀川式土器に触りました。壺のような形で高さは40cmくらい、文様は多くないようですが、数本の横線が触ってきれいでした。この土器は弥生時代前記ということですが、遠賀川式土器はもともとは福岡県遠賀川下流の立屋敷(たてやしき)遺跡から1931年に見つかった有文の弥生土器で、それが山陽から近畿、さらに名古屋まで広まったもののようです。
 もう1点、遠賀川式土器で面白い物が展示されていました。底を上にして置いてあって、底面を触ってみると、2、3個、小さな穴のようなのがはっきりと確認できます。これは籾の圧痕だということです。稲作を証拠付ける物の1つと考えてよいのでは、ということでした。
 同じく高蔵遺跡出土で、条痕紋系土器というのがありました。側面に、横方向に深い溝が数本はっきりと彫られていました。
 弥生の土器としては、後期の山中式土器(下から5分の3くらいまでが赤いそうです)、瑞穂遺跡(名古屋市瑞穂区)出土の高坏(円錐台の上に皿を乗せたような形で、台には数個穴が空いている)などにも触りました。また、出土地はわかりませんが、手炙り式土器という、ちょっと変った形の土器もありました。全体の形は、高さ20cmくらい、直径10cm余のダルマのようにずんぐりした形で、上のほうの片側だけが開いています。中は黒くなっているということで、中で火を燃したらしいです。実際に何のために使われたのかは不明だそうですが、もしかすると手をかざして暖を取ったかもしれないということでこんな名前になったようです。
 
◆民族資料
●パプア・ニューギニアのセピック川流域の資料
 神言会の神父で人類学者でもあり、南山大学で教鞭もとったヘンリー・アウフェンアンガー(1905〜1980年)が収集した資料です。パプア・ニューギニアのセピック川流域の北部低地部の資料が中心だそうです。この地域の特に精霊信仰と結び付いた風習や儀礼、建物、彫刻などは、「セピック・アート」と呼ばれて人気があるとか。
 まず初めに、いろいろな儀礼用の仮面を触りました。とくに印象に残っているのは、木製の仮面で、下のほうは長い鼻と口と目のふつうの顔なのですが、その上にもう1つの顔の鼻と口が逆さの形であるものです。木製の仮面のほかにも、なにか分かりませんが植物の繊維で編んだ仮面や、さらにその上に派手に色を塗りたくったような仮面もありました。これらは、ヤムイモの収穫儀礼用の仮面だということです。ちなみに、パプア・ニューギニア(クック遺跡)では、1万年くらい前からヤムイモなどの芋類を中心に栽培が行われていて、独立して農業が発生した世界でも数少ない地域の1つとされています(詳しくは、パプアニューギニアレポート・世界遺産クック遺跡 -)。
 次に、ハンド・ドラム。長さ60cm余、直径10cmほどの円筒形で、両端は開いていて、中央は少し細くなっていてそこに持ち手が付いています。両端が開いているのでどうやって音を出すのだろうかと思いながらそのまま手でたたいてみたりしましたが、実際は両端には皮が張られていたとのことです。それなら、日本の鼓と同じようなものですね。(別の地域だったと思いますが、直径60、70cmほどの大きな木の幹が空洞になっているウッド・ドラムもありました。)
 木製皿。直径50cmくらいもある大きな浅い皿で裏向きに置いてあります。底の面には、大きく鳥のような形(脚が2本と長く伸びた頭部と尾)が浮き出しで描かれています。
 腰掛け。高さ20cm余、直径10cmくらいの、腰掛にしては小さな円筒形です。上面の下には、前後に(あるいは左右に)背合せで人形が彫られています。ともに、両膝をふかく曲げ、両手を上にいっぱいに伸ばして上の円盤を支えています。必死になって天空を支えているようで、とても座ってみるような気にはなりません。
 キンマ用石灰入れとなめ棒。キンマ用石灰入れは、長さ30cm余の細長いヒョウタンのような形で、片方は空いています(表面にはなにか絵のようなのが描かれていたと思います)。なめ棒は、直径1cm、長さ50、60cmくらいもある長い棒で、棒の表面には輪のような溝が並んでたくさん彫られています。これは、アフリカから西アジア、東南アジア、さらにパプア・ニューギニアなどオセアニア西部までの熱帯地域で広く行われている、ビンロウジの核とキンマの葉や実と石灰を口に入れ噛むという習慣(ビンロウジには依存性があるそうです)のために使われる道具のようです。隣りには、ビンロウジの割り木もありました。
 また、豚の牙製や貝製の首飾りや胸飾りがいろいろありました。いちばん印象に残っているのは、豚の牙が両側にそれぞれ20個近く、大きいもの(長さ12、3cm)から小さいもの(長さ5cmくらい)までずらあっと並んだ首飾りです。豚は貴重な動物のはずですので、これだけの牙を使った飾りはすごい権力と富の象徴になっていると思います。飾りとしては、2cmくらいの小さなタカラガイを連ねた首飾りや、下に長さ5cmくらいの細長い貝の付いた胸飾り?もかわいかったです。
 ココヤシの笛があって、これは実際に吹いてみて楽しみました。直径10cm弱のほぼ球形で、穴が2つあります。一方の穴を口にあてて吹くと音が出ます(もう一方の穴は適当に指でふさぎ方を変えると音も変わる)。
 
●パプア・ニューギニアの高山地域の資料
 南山大学の東ニューギニア学術調査団が1964年に調査したときの収集品です。ニューギニアの高山地域の人たちは「20世紀まで生き延びた石器時代人」と言われていてそれを調べるのが目的だったそうですが、1960年代にはすでに、石器時代から鉄器時代への移行が始まっていたそうです。
 まず、石斧が多数展示されていました。実用的なものと儀礼用のものがあって、儀礼用のほうが立派で、表面はまるで鏡面を触っているかと思うほどつるつるに磨かれています。儀礼用石斧でもっとも大きいのは、長さ45cm、幅20cm弱、厚さ2cmくらい(実用の石斧に比べて厚さがかなり薄い)で、先端の刃のほうがやや広がっていて、まったく刃こぼれのような痕はありません。実用の石斧もたくさんありましたが、だいぶ小さくて、触った感じは儀礼用の石斧よりもっと硬い石を使っているのではと思いました。それから、「貝斧」という、貝製の斧もありました。触った感じは、一部貝のような所もありましたが、かなり硬そうで化石化しているのではと思ったりしました。近くの壁面の上のほうには弓が展示されていて、それも取り外してもらって触ってみました(長さ1.5mくらい)。
 竹製の笛と口琴がありました。笛は、両端が開いた長さの異なる竹が何本も束ねられています。ちょっと吹いてみても、開管のためでしょうか、まったく音が出ませんでした。口琴は、30cm余の長さの竹を、一端から10cmくらいの所から他端に向かって斜めに切った形になっていて、どのようにして音を出すのかまったく分かりませんでした。
 繊維で編んだ腰帯と樹皮製の腰帯がありました。樹皮製の腰帯は、直径25cmくらいの大きさに巻かれていて、一部は3重、その他の部分は2重になっています。それにしても樹皮はまったく柔軟そうではないので、着脱はたいへんそうに思いました。
 シロチョウガイ製の首飾り(次のオセアニア地域だったかもしれない)は触ってもきれいでした。私はシロチョウガイに触ったのは初めてでした。直径20cmくらいの薄い円盤状で、その一部が10cm弱くらいの反円形に窪んだ形です。表面は黄色っぽい色だそうですが、裏は真珠光沢できらきらと色が変わってきれいだそうです。
 
●オセアニアの民族造形
 新潟県出身の今泉隆平氏が収集したコレクションの一部を、2009年に埼玉県鶴ヶ島市から人類学博物館が譲り受けたものだとのことです。ソロモン諸島、バヌアツ共和国、フィジーなどの民族造形品で、調査・研究の過程で収集された資料ではなく、市場に出回った美術品を集めたものだそうです。
 初めに、ソロモン諸島の男性と女性の彫像(木像、高さ30cm弱)やバヌアツ諸島の大きな豚たたき棒に触りました。豚タタキ棒は、儀礼用ということですが、いくつかの叉に別れ、多数の突起やぎざぎざの溝があったりして、なんとも怖そうです。
 一番印象に残っているのは、ソロモン諸島の「祝宴用鉢」です。木製で、ちょうど船のような形で、長さ1m余、幅も高さも20cm余くらいの大きさです。船の両端には、10cm弱の同じ大きさ同じ形の人の顔の像が向かい合ってあります。また、船の両側面には、同じ形の浮出しの絵が大きく面いっぱいに描かれています。その中央部には、上のまっすぐ水平に伸びた線を、何かはよく分かりませんが下から支えるようにいくつも線が描かれています。そしてこの両側には、頭部を中央側、尾を外側に向けた姿で大きく魚が向い合せで描かれています。さらに、人の顔や魚の目など、ポイントになりそうな所にはあちこち、貝がはめこまれています。おそらく何かの神話をモチーフとした絵のように思いますが、よくは分かりません。
 また、ソロモン諸島のマライタ島の婚資の貝貨もすごかったです。小さな貝を隙間なく連ねた2m以上もある綬のようなのが十数本束ねてあります。首から掛けてみましたが、ずっしりと重かったです。(貝貨は、ふつうは冠婚葬などの儀式用ですが、ラバウルのトーライ族など一部では今でも実際のお金としても使われているそうです。詳しくは、パプアニューギニアレポート・ラバウルの魅力再発見の旅 )ニューカレドニアの翡翠製の感状(漢字が違っているかもしれません)にもちょっとびっくりしました。少し角ばった、厚さ2〜3cmくらい、10cm余四方くらいの大きさの硬そうな緑っぽい石(本物の翡翠のようです)です。原石からこのような形に削り磨き上げるのにはたいへんな時間と労力がかかったことと思います。これらの島々でも、階層化が進み、このような富や権威を象徴する品々が社会関係を維持し安定させるのに役立っていたのかもしれません。
 
● タイ西北部山地民の資料
 この資料は、上智大学が1969年から実施した「上智大学西北タイ歴史・文化調査団」による収集資料の一部が南山大学人類学博物館に移管されたものだとのことです。タイ西北部の山地(チェンマイ県やチェンライ県など)に住むユーミエン族・モン族・アカ族などの少数民族の資料です。これらの民族は中国南部に広く住んでいる少数民族(といっても、中国では各民族とも数百万人になる)の一部が移住してきた人たちのようで、ユーミエン族は中国のヤオ(瑤)族、モン族は中国のミャオ(苗)族、アカ族は中国のハニ族と同じないし同系統の民族です。そのため、漢字や道教などもふくめ、中国文化の影響を強く受け、またときにはそれを自分たちのよりどころにもしているようです。
 展示ケースの中でしたが、ユーミエン族には漢字体で書かれた「評皇券牒」という文書(ヤオ文書の1つ)が伝えられており、自分たちの出自に関する神話、免税や山中居住などの特権、官位の賜与などが漢字で書かれているそうです。ちなみに、その神話によれば、ユーミエン族は、竜犬と南宋?の皇帝の娘との間に生まれた6男6女に遡ることになっていて、そのため犬は神聖しされ、けっして食べることはないそうです。
 私が実際に触ったのは、ユーミエン族の水煙管(垂直の筒に長い筒が斜めに付いていて、煙草の煙を水に通してニコチンを濾過するらしい)や捕鳥器(竹製なのでしょうか、長さ70〜80cm、太さ5mm弱のとても撓りのよい棒で、引き金のようなのも付いています。使い方はよく分かりませんが、これで小石のようなのを飛ばしたのでしょうか?)、モン族の瓢箪製の容器や蘆笙(木?の筒のようなのに竹製の管(蘆のような感じはしなかった)が6、7本垂直に取り付けられています。吹き方は分かりませんでした)などです。
 また、これらの人たちが作ったという銀製品が薄いガラスケースの中に展示されていて、蓋を開けてもらって触りました。なかなか素晴しい装飾品で、とくに、縦30cm余、幅15cmくらいの大きな背飾りは絶品です。長さ3cmくらい、直径5mmほどの細長い管(この細長い管は他の飾りでもよく使われていた)をいくつも連ねた紐が何十本も並んでいます。そしてその上のほうには、長さ15cmくらいの大きな魚が横向きにあり、さらにその下には、幅10cmほどの、羽を開いた形の蝶が上向きにあります。持ってみましたが、2、3kgはあるのでしょう、ずっしりと重かったです。その他にも、指輪、腕輪、首輪、ペンダント、ターバン留め(女性は髷を結い、ターバンを巻いていて、それを留める大きな銀のピン)など、銀性の装飾品がいろいろありました。かれらは、銀貨などもふくめいろいろな銀を含んだ品物を鋳直してこのような銀製品を作るそうです。さらに、銀ではなく、アルミの細長い管を連ねた飾りもありました(私が触ったのはアカ族のアルミの飾りです)。
 
◆その他
●テーマ別の展示品
 中央の机の上の薄いガラスケースや引出しには、テーマ別にいろいろな展示品があり、その一部も紹介してもらいました。
 ケースの蓋を開けてまず触ったのが、いろいろな型式の土器片。でもこれは、文様が違っていることらしいことは分かっても、それぞれの型式と文様の特徴を触って確認することはとてもできませんでした。次は、骨や角を加工して作ったいろいろな装飾品や釣り針や骨鏃など。これは触って分かりやすかったです。いろいろな石斧が入ったケースもありました。石斧は、使い込んだらしくて刃が大部分欠けてしまっているものや、まだ作りかけらしいものも多くて、完成品といえそうなものはあまりなかったです。また、その材料の石は、先のパプア・ニューギニア高地民の石斧ほど硬くはないように感じました(硬質砂岩のような触感でした)。貝輪とそれを作る道具が入ったケースもありました。きれいな円形に穴の空いた物は少なくて、半円形に割れている物など失敗作と思えるものが多かったです。道具としては、貝をたたいて割るのに使ったらしい石や台にしたらしい石、貝の断面を磨く砥石などがありました。これらを使えば、今の人も実際に貝輪を作ることができそうです。
 引出しから出してもらって、内行花文鏡という鏡にそっと触りました。完品と、破片を所定の位置に並べたものです。完品は、直径20cm弱、中央の膨らみの回りに5弁?の花の模様があり、その外側には細かい弧線のような線が多数あるようです。触った感じは全体にざらついていて、ぜんぜん鏡面のような感じはしません。見た目も、緑青のためなのでしょう、全面緑色っぽいそうです。これにたいし、破片を並べたほうは、とてもつるつるした手触りで、これなら鏡にもなったかもと思うほどです(見ためも鈍い銀色だそうです)。この形式の鏡は、中国では後漢代に多く作られ、日本でも弥生時代末から古墳時代前期の遺跡からかなり見つかっているらしいです。
 
●家形石棺
 博物館の入口を入ってすぐの所に、岐阜県可児市の土田渡東山古墳にあったとされる家形石棺が展示されています。全体の大きさは、長さ186cm、幅67cm、高さ90cm弱で、屋根の部分は半分開いた状態です。大きい物で幅1mくらいの石を組み合せて作られています。石は、触った感じでは、凝灰岩などというよりも、砂岩のような気がします。
 この石棺についてですが、昭和の初めまで可児市の土田渡(どだわたり)地区には百基ほどの古墳があったそうですが、開墾によりほとんどが消滅してしまい、残っていたのは一番大きな東山古墳の石室の基底部と石棺が1基だけとなり、その石棺を南山大学が保管することになったそうです(詳しくは、土田渡古墳群 )。
 
 以上で、ようやく私が案内してもらいながら触った展示物についての報告を終わります。考古資料から民族資料まで多岐にわたり、それらに実際に触れながら、それを製作し使っていた人たちの生活や考えにできるだけ心を向けようとしたつもりですが、はっきりしたイメージを構成するのは極めて難しかったです。もっともっと時間をかけて関連の資料に触ったり解説を聴いたりしなければなりません。また、旧石器時代の資料やテーマ別の引出しやケースの中の資料についてももう1度訪問して触ってみたいと思っています。
 
 (2014年1月20日)