*この文章は、日本ライトハウス情報文化センターの点訳ボランティア向けの冊子
「点訳通信81号」掲載の原稿に大幅に加筆したものです。
◆初めに
皆さんもご存知の、葛飾北斎のあの有名な『冨嶽三十六景』、私はこれまでにその中の「神奈川沖浪裏」についてだけは、点図で表わしたものや立体的に本案したものを触ったことがありました。
昨年末、常磐大学(茨城県水戸市)のコミュニティ振興学部の中村正之教授と学生たちのグループ(「TEAM MASA」)が、冨嶽三十六景の全46作品の立体コピー図版を製作し、日本ライトハウス情報文化センターにもご寄贈いただきました。
中村先生は、専門は生涯学習プログラム論ですが、それとは別にながらく天文写真をされておられる方です。見えない人たちにも天文の世界を楽しんでもらえればということで、いろいろな天文写真を立体コピー図版に加工して、2008年から全国各地で「さわれる天体写真展」を研究室の学生たちとともに行ってきました。そして今回、立体コピーの技術をミュージアム資料にも応用できないかということで、山梨県立博物館より、同館所蔵の冨嶽三十六景全作品の画像データを提供していただき、それを基に立体コピー図版の「さわれる冨嶽三十六景」を作成しました。
◆経緯
実は、私はこの立体コピー図版の作成に、当初少し関わらせていただきました。
2012年の11月末に、常磐大学の中村研究室のある学生から、冨嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」について、その立体コピー図版が2パターン送られてきました。卒業論文のテーマとして、立体コピーの技術を絵画に応用したい、そのために私の意見を聞きたいということでした。
2パターンとも4つの画面から成っていて、A4サイズの立体コピー用紙の上下に1画面ずつ配置されていました(4画面でA4用紙2枚)。
初めのパターンは次の4画面です。
(1-1) 画面の一番下に大きな波
(1-2) (1-1)に加えて、画面左側に大きな波
(1-3) (1-2)に加えて、画面下に船2艘と画面左側に船1艘
(1-4) (1-3)に加えて、画面やや右下に富士山(これが全体)
次のパターンは、初めのパターンと順が反対になっています。
(2-1) 画面やや右下に富士山だけ
(2-2) (2-1)に加えて、画面下に船2艘と画面左側に船1艘
(2-3) (2-2)に加えて、画面左側に大きな波
(2-4) (2-3)に加えて、画面下に大きな波(これが全体)
この2パターンについて、私は次のような感想を書きました。
(以下、私のメールからの引用)
この絵は、これまでに何回か触ったことがあって、ごく大まかですが全体は何となく知っているものでした。いちおうそういう予備知識があっての感想です。
2つの方法のうちでは、明らかに2番目の方が分かりやすかったです。以下詳しく書きます。
(1-1)から(1-2)は、波が別の所に加えられますのでほとんど問題なく触って分かります。
(1-3)では、加わったはずの3つの船が、ほとんど触って確認することはできません。波に隠される、あるいは船の回りに波があって区別がつかなくなるということです。とくに左の船はまったく分からないです。
(1-4)の富士山ですが、これは私は富士山が絵の中でどのへんにあるかを知っているので、とんがった3角の部分で分かりますが、この絵について知らない人にとっては、追加された小さな富士山を絵全体の中から触って探すのはけっこうたいへんだと思います。
次に2番目の方法ですが、(2-1)でまず富士山の位置が分かります。
(2-2)で3艘の船が分かり、その中の右上の船の先あたりに富士山がくっついているのが分かります。
(2-3)では、左の大きな波で左の船がほとんど分からなくなりますが、前の図でいちおう船の位置は知っているので、たぶんこのあたりにあるのだろうとは想像できます。
(2-4)でも、右側の2艘の船が波のためにだいぶたどりにくくなっていますが、前の画面で記憶しているので、いちおうどの辺りにあるかは分かります。
その他、私が感じたことを書きます。
絵を4枚に分けるのでしたら、今のように2枚を1枚の上下に描かず、4枚を別々の用紙にしたほうが良いと思います。そうすると、4枚を重ねて順に触っていった時、富士山や船がいつも同じ位置・場所にあって手でだいぶ確認しやすくなります。
で、もし4枚に分けて作るのでしたら、今の倍くらいの大きさで描けるので、触ってもっと見やすくなると思います。(たぶん元の浮世絵の大きさもそのくらいだったと思います。)そういうのも作ってみてはいかがでしょうか。
(引用終わり)
私の意見もほぼそのまま取り入れられて、昨年の春以降、「TEAM MASA」の皆さんは、山梨県立博物館から提供された画像データをどのように4画面に切り分けたら良いのか研究しながら、冨嶽三十六景全46作品の立体コピー図版製作に努力され、11月初めに完成、そして日本ライトハウスにも寄贈していただきました。
◆鑑賞会と鑑賞法
この「さわれる冨嶽三十六景」では、1つの原画を、絵の主要な構成要素を抽出するようにしながら4画面に分け、A4の立体コピー図版4枚セットで表しています(各図版には、点字と墨字でごく簡単な画面の説明も付されています)。
原画をそのまま立体コピーしただけでは触ってみてもほとんど分かりませんが、このように4つに分けられた画面を順番に重ね合わせるようにして触っていくと、絵全体をある程度触って理解できる作品がかなりあります。私は46作品全部を丁寧に触って確かめてみましたが、20点くらいは解説をしてもらえば触って十分に鑑賞できるように思いました。
参考のために、全46作品中、私が解説を聞きながら触ればある程度理解できるのではと思った作品を以下に記します(※を付したもの)。触って分かりやすいだろうと私が判断した基準は、富士山のほかに、画の主要構成要素のうち少なくとも1つは触ってはっきりと確認できるということです。(山梨県立博物館所蔵の冨嶽三十六景の全作品の画像と解説は、
「冨嶽三十六景」博物館資料のなかの『富士山』 で見ることができます。)
※1:神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)
※2:凱風快晴(がいふうかいせい)
※3:山下白雨(さんかはくう)
4:深川万年橋下(ふかがわまんねんばしした)
5:東都駿台(とうとすんだい)
6:青山円座松(あおやまえんざのまつ)
※7:武州千住(ぶしゅうせんじゅ)
8:甲州犬目峠(こうしゅういぬめとうげ)
※9:尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)
※10:武州玉川(ぶしゅうたまがわ)
11:武陽佃島(ぶようつくだじま)
12:相州七里浜(そうしゅうしちりがはま)
※13:信州諏訪湖(しんしゅうすわこ)
※14:甲州石班澤(こうしゅうかじかざわ)
15:常州牛堀(じょうしゅううしぼり)
※16:相州梅澤左(そうしゅううめざわのひだり)
17:甲州三島越(こうしゅうみしまごえ)
※18:東都浅草本願寺(とうとあさくさほんがんじ)
19:駿州江尻(すんしゅうえじり)
20:遠江山中(とおとうみさんちゅう)
21:礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)
22:下目黒(しもめぐろ)
※23:東海道吉田(とうかいどうよしだ)
※24:上総ノ海路(かずさのかいろ)
※25:登戸浦(のぶとうら)
※26:江戸日本橋(えどにほんばし)
27:隅田川関屋の里(すみだがわせきやのさと)
28:相州箱根湖水(そうしゅうはこねのこすい)
※29:甲州三坂水面(こうしゅうみさかすいめん)
※30:東海道程ヶ谷(とうかいどうほどがや)
※31:江都駿河町三井見世略図(えどするがちょうみついみせりゃくず)
32:御厩河岸より両国橋夕陽見(おんまやがしよりりょうごくばしのせきようをみる)
※33:五百らかん寺さざゐどう(ごひゃくらかんじさざゐどう)
34:隠田の水車(おんでんのすいしゃ)
35:相州江の島(そうしゅうえのしま)
※36:東海道江尻田子の浦略図(とうかいどうえじりたごのうらりゃくず)
37:本所立川(ほんじょたてがわ)
38:従千住花街眺望ノ不二(せんじゅかがいよりちょうぼうのふじ)
※39:東海道品川御殿山ノ不二(とうかいどうしながわごてんやまのふじ)
40:甲州伊沢暁(こうしゅういさわのあかつき)
41:身延川裏不二(みのぶがわうらふじ)
42:相州仲原(そうしゅうなかはら)
43:駿州大野新田(すんしゅうおおのしんでん)
44:駿州片倉茶園ノ不二(すんしゅうかたくらちゃえんのふじ)
45:東海道金谷ノ不二(とうかいどうかなやのふじ)
46:諸人登山(もろびととざん)
全作品を触ってみると、見る場所や季節によって様々に変化する富士山の姿ばかりでなく、富士山とともに描かれている当時の庶民の暮らしぶり、さらには葛飾北斎の自由奔放な想像力まで伝わってくるようで、このシリーズのすばらしさを実感しました。ぜひ多くの見えない人たちにも冨嶽三十六景を触って楽しんでいただきたいと思い、この立体コピー図版による鑑賞会を2月・3月・4月の第4土曜日に開催しています。
鑑賞会では、水曜日の点訳ボランティアを中心に、参加者1人ずつに解説ボランティアが同席して触察による鑑賞を補助してもらっています。解説ボランティアには、資料として、各作品について上記の山梨県立博物館の作品解説と立体コピー図版に付されている解説を合せたものを渡し、またワークショップ形式で、触って鑑賞する時のポイントを各作品について一緒に検討してみました。
実際の鑑賞会では、定員を6人とし、各参加者ができるだけ待ち時間なく鑑賞できるように、上の触って分かりやすいと思われる作品を、3作品ずつAからFまでの6セットに分け、それを順次交換しながら鑑賞してもらいました。(この3作品ずつ6つに分けるのにも、分かりやすさや面白さなど、できるだけ平均的になるよう配慮しています。なお、うまく交換できない場合も考えて予備のセットも用意しました)。
以下に、A〜Fと予備の作品を示します。
A 2:凱風快晴 25:登戸浦 23:東海道吉田
B 3:山下白雨 29:甲州三坂水面 39:東海道品川御殿山ノ不二
C 9:尾州不二見原 31:江都駿河町三井見世略図 24:上総ノ海路
D 10:武州玉川 26:江戸日本橋 30:東海道程ヶ谷
E 14:甲州石班澤 16:相州梅澤左 7:武州千住
F 18:東都浅草本願寺 13:信州諏訪湖 33:五百らかん寺さざゐどう
予備 4:深川万年橋下 17:甲州三島越 36:東海道江尻田子の浦略図
それでは、立体コピー図版がどのような構成になっていて、それをどのようにして触って鑑賞するのかについて、以下の2作品について紹介します。
●神奈川沖浪裏
次の4枚から成っています。
@ 画面中央のやや右下に小さく富士山があります。(触ってみると、向って左の裾野のほうがなだらかに伸びています。)この富士山は、2枚目以降の図版でも、かならず同じ位置に同じ形であります。できるだけ富士山の位置と形を記憶しておいてもらうようにします。
(
立体コピー図版は )
*富嶽三十六景のシリーズでは、1枚目はかならず富士山になっています。
A 1枚目の富士山に加えて、富士山の下に2艘、左に1艘船があります。(左の船は、一部しか描かれていない。後で大きな波に飲み込まれているためだと分かる。)ここで、富士山と船の大きさを比べてもらいます。船に比べてはるかに巨大な富士山のほうが小さく描かれているが、それは、富士山ははるか遠くに見えているのにたいして、船はすぐ近くに見えているからと説明します。
(
立体コピー図版は )
B 1枚目の富士山、2枚目の3艘の船に加えて、画面左側に大きな浪があります。2枚目にあった左側の船は、まるでそのさか巻く浪に飲み込まれるように、触っただけではほとんど分からなくなっています。(ぎざぎざになっている波頭も触って確認してもらいます。)
(
立体コピー図版は )
C これが全体の絵です。左側の大波に加えて、さらに画面の下にも大きな浪があり、手前の2艘の船まで大波が達しています。
(
立体コピー図版は )
全体としては、遠くに鎮座する富士山と、目の前の荒れ狂う波濤とそれに翻弄されそうな船、といった構図になります。遠近法によってうまく描かれ、また同と静の対比も際立っている作品のように思えます。
「神奈川沖浪裏」の原画と解説はこちら
[参考:立体コピー図版に付された解説]
@画面中央右側に富士山があります。
A画面下に3隻の船があります。
B画面左側、大きな波が1隻の船に襲い掛かろうとしています。
C画面左下にも船を呑み込もうとする大きな波があります。
●東都浅草本願寺
@ 画面のほぼ中央に、富士山があります。
(
立体コピー図版は )
A 富士山に加えて、画面左下に、いくつも屋根が連なっています(浅草の町並みのようです)。屋根と屋根の間から糸が上にずうっと伸びていて、その先に凧があります(富士山よりも高い)。
(
立体コピー図版は )
B 富士山、町並みと凧に加えて、画面右側いっぱいに大きな屋根が描かれています。本願寺の屋根です。屋根の上に瓦がきれいに並んでいるのが、触って分かります。また、屋根の上で職人がなにか仕事をしているようです。(屋根の手前のほうの大きな3角形を触って確認してもらいます。飾りのようなのも触って分かります。なお、3、4月の鑑賞会では、この大屋根のごく簡易な紙模型を用意しました。)
(
立体コピー図版は )
C これが全体の絵です。画面左下の町並みの真ん中あたりに、高い櫓が上にすうっと伸びています。また、画面中央にほぼ水平に霞ないし雲を表す線があります(この霞のような線は、空を低い所と高い所に分けているようにも思われます)。凧や櫓は、この線よりも上まで伸びていて、その高さを感じさせます。
(
立体コピー図版は )
全体としては、中央の富士山を背景に、寺院の大きな屋根と庶民が暮らす町並み、また、低い家並みと空高くにある凧と櫓が対比的に配されています。この絵は、地上のある地点から見たのではなく、本願寺の屋根近くの上空から見下ろしているような構図になっています。この絵を触って頭の中でイメージすると、なにか江戸の町の様子が思い浮かんでくるような気がします。
「東都浅草本願寺」の原画と解説はこちら
[参考:立体コピー図版に付された解説]
@画面中央に富士山があります。
A画面左下に、町並みがあります。子どもたちが凧揚げをしているようです。
B画面右側に、大きな屋根があります。東本願寺です。
C画面左中央に、高い櫓があります。
◆おわりに
北斎の『冨嶽三十六景』のシリーズでは、随所に遠近法が用いられていますが、その原理を理解すれば、平面の図から触って立体的に事物の配置を理解することはそんなに難しくはありません。また、しばしば霞ないし雲のようなものがたなびいている様を表す水平の線(「すやり霞」と言うそうです)が用いられていますが、この線によって近景と遠景など画面が分けられたりしていて、絵で示される空間全体を触って理解するのに役立ちます。さらに、幾何学的に整った配置や形になっているものも多く、それらは触って理解するのに適しています。
今回常磐大学の先生と学生たちが試みた、絵の構成要素ごとに順に重ね合わせるようにして触っていって絵全体を理解するという方法は、『冨嶽三十六景』にはとても有効でした。私は実際に目で絵を見たことはまったくありませんが、このシリーズを触って鑑賞することで、頭の中の絵の世界は大いにひろがったように思います。鑑賞会に参加された方々にも、触覚を通して各自頭の中で絵を楽しんでもらえるよう、ボランティアの方々とともに今後も努力します。
最後に、3月22日の鑑賞会に参加された方々の感想を紹介します。
☆ 楽しかったです! 原図をいきなり触ってもまったくわかりませんが、こうして4枚に分けてあると、よくわかります。富士山をメインに周囲の情景がいろいろ描かれていて、おもしろいから2時間続けて9作品も触ってしまいました。こんな機会はなかなかありません。
☆ 同じ絵を4枚に分けて触るなんて驚きでした。すごくわかりやすいです。一番印象深かったのは樽の中に富士山を見る絵です。ふだんは絵を見ることはなく、興味ももてませんでしたが、絵とはこんな素晴らしいものなのかと初めてわかりました。
☆ とってもよかったです! 夢中になって触りました。2月・3月と続けて参加しましたが4月は都合で参加できないのが残念です。こうやってみると、やっぱり日本の風景はいいなあとしみじみ思います。
●追記:6月23日に、名古屋YWCAで、美術ガイドボランティアグループ「アートな美」の皆さんと一緒に、「さわれる冨嶽三十六景」の鑑賞会をしました。参加者は6名(全盲の方3名、少し見えている方3名)で、1時間半の鑑賞会で多い人で12作品、少ない人で4作品鑑賞していました。鑑賞後まとめの会があり、皆さんの感想を聞くことができました。以下はその感想です。
☆ 富士山を中心にして付け足していくやり方は、絵によってはわかりにくい場合がある。部分拡大図があると、もっとわかりやすいのではないか?
☆ 触図は難しいが、よく説明していただいたので楽しむことができた。
☆ 富士山に順番に付け足していく方法は、わかりやすかった。言葉による絵画説明のひとつの手法といえる。こういう説明の方法があるということ。シートがかぶさっているのは、自分にはわかりにくかった。
☆ 絵の要素が順番に出てきてわかりやすかった。次になにが出てくるか、わくわくしながら見た。「江戸日本橋」は手前の人がたくさんいるところを拡大してもらえるとわかりやすいと思う。
☆ とてもおもしろかった。「甲州三嶌越」は、1枚目、2枚目の富士山の稜線が切れていて、樹の幹があるということだったが、せめて2枚目ぐらいに樹をもってきてくれるとよかった。富士山と浪のラインがおもしろかった。部分的な拡大図があるとよい。
☆ 描かれている富士山の大きさで、どこから見ているかわかるというのはおもしろかった。すべての絵で、最初に富士が描かれていて、次々に重ねていく手法はわかりやすかった。頭の中に絵が浮かんできた。
(2014年4月13日、6月30日更新)