橿原市昆虫館を訪ねて――動くものを理解することの難しさ

上に戻る


橿原市昆虫館を訪ねて――動くものを理解することの難しさ

 10月28日、橿原市昆虫館に行ってきました。きっかけは、生きたチョウを触ることができるという話しを聞いたからです。

 私が住んでいる所は大阪府茨木市ですが、そこから奈良県橿原市の橿原市昆虫館までは、阪急、地下鉄、近鉄、バスを利用し、行きは5回、帰りは6回も乗り換え、片道たっぷり2時間半はかかりました。初めての所に1人でこれだけの時間をかけて往復するのは、やはりけっこう疲れるものです。もちろん、以前に比べれば、交通機関を利用したこのような長旅も周りの人や駅員の協力によりだいぶ楽にできるようになりました。とは言っても、間違った電車に乗るとかホームから落ちるとかといった事がないように、細心の注意を払い続けなければならないことは以前と変りません。
 橿原市昆虫館は、近鉄大阪線の八木駅から橿原市昆虫館行きのバスで30分ほどの所でしたが、自然がかなり豊かな所のように思いました。昆虫館の2つ手前の駅名が「万葉の森」とアナウンスされていましたし、終点でバスを降りると空間の広さを感じ、また昆虫館の方に歩きかけるとすぐ鳴き声が耳に入ってきました。最初は一瞬鳥の声かと思いましたが、多くは虫の音でした。もう10月末ですのでこんなにもたくさん虫の音が聞けるのは、たぶん回りに広い草原などがあるからだろうと思いました。昆虫館の入口まですこしいっしょになった方も、すぐ目の前に天香久山が見えると言っていました。

 昆虫館にはあらかじめ予約していましたので、学芸員のKさんの案内で見て回ることができました。
 最初は「生態展示室」です。すべてケースに入っているのでもちろん触ることはできません。ただ、その中に鳴く虫のコーナーがあり、スズムシとムニンエンマコオロギ(小笠原原産で小形種だそうです)が、ちょっと力ない様子で鳴いていました。
 さて、これらの虫の音を聞きながら、Kさんと昆虫食のことなどいろいろ話ました。海外でのコオロギの鳴き声についてたずねたところ、タイワンオオコオロギの話しをしてくれました。タイワンオオコオロギは体も大きくその分声も大きいのですが、さらに、土に掘った巣穴の入口の所に馬蹄系に土を積み上げ、それがいわば共鳴板のような役割をして、頭が痛くなるほどの大きな声に増幅されるそうです。また、タイワンオオコオロギは料理してよく食べられているとのことです。Kさんも実際にタイで食べてみたそうですが、エビなどと同じような感じで意外に食べれるとのことでした。私も、小さいころ、春になるとサワガニを泥の中から掘り出し、油でいためて食べた思い出などを話しました。昆虫を食べる事はとくに珍しい習慣でもないようで、日本でも大正期までは50種くらいの昆虫食があったそうです。その日は、昆虫館で特別にイナゴを食べる企画もありましたが、私は帰りのバスの時間もあり参加しませんでした。
 私の場合、あらかじめ予約しておくと、このように学芸員の方といろいろ話しができて、展示品はあまり触れなくてもけっこう楽しくいろいろな事を知ることができます。
 生態展示室では最後にオオチャイロハナムグリというコガネムシの1種の香りを嗅ぎました。すでに季節が終わっていたので生きてはいませんでしたが、Kさんがケースからその死骸を取り出し、触ってみると、ずんぐりとしたかなり大きなもので、香水のような香りをしっかり確かめることができました。生きていればもっと強い香りなのでしょうが、その体は触って観察できなかったでしょう。

 次に、「放蝶温室」に行きました。入ると湿った空気を感じるとともに、すぐにかなり高い所から鳴き声が聞えてきました。それは世界で一番小さい鳥、ハチドリでした。放蝶温室では、いろいろな植物や水の流れなどのある亜熱帯の環境で、3種類のハチドリのほか、12種のチョウ約400匹が常時放し飼いされています。その中のオオゴママダラチョウという大きなチョウを触って観察できました。
 Kさんが私の左手の甲に通称パラベンと呼ばれる粉のような物を付けます。(パラベンは正式にはパラ案息香酸メチルと言い、自然界には存在しない物質で、整髪料などにも使われているそうです。)そうすると、その匂い(と言っても人間にはまったく感じません)に引かれて次々とオオゴママダラチョウの雄がやってきて手に留まり、口で夢中でなめ始めます。どんどん数が増えて10匹以上にもなったりします。手の甲の感じは、何十本ものまばらな毛先にくすぐられているようです(口でなめられている感触はまったくありませんでした)。右手の指でそうっと軽くチョウの羽を触ります。10cm近くもあろうかという本当に薄い羽が少しずつずれた状態で観察できます。チョウが羽を広げたのは触ってわかりますが、飛ぼうとしている状態なので丁寧には触れません。Kさんが私の指をガイドして羽の隙間から奥へと導き胴体の部分を触れさせてくれました。羽の大きさに比べれば細い棒のようにか弱そうな体でした(小さいころ、偶然ガに触ってしまったり時にはつぶしてしまった時に感じた、あの太くて堅い、なのに中が柔らかそうな感触とはまったく大違いです)。
 チョウはずうっと留まり続けているので、けっきょく私とKさんはたぶん30分近くその辺をごくゆっくり歩いたり立ち止まったりしながら時間を過ごしました。後ろから時々子どもたちがやってきて、私の手に留まっているチョウの群を見て歓声を上げたり、なかには自分の手にチョウを留まらせようとする子どもまでいました。

 最後は「特別展示室」です。ここには触ることのできる標本が6種類ありました。ただ、残念なことに、多くの人たちが触ることもあってどの標本も脚が取れたりしてかなりいたんでいました。Kさんによれば、子どもたちが団体で来たりするとどうしようもないということでした。今新しい標本を製作中ということで、展示する側の大変さもわかりました。
 まず、世界最大のカブトムシ・ヘラクレスオオカブトムシ(全長18cmにも達するものもあるとのことです)を触りました。胸から出ている角も大きくりっぱで、また体表は何かの樹脂のようにすべすべしていて、私は初めてっきり模型なのかと思いました。でもそれは本物から作った標本でした。持ってみると重量感もあり、その迫力と怖さを想像してしまいました。次に触ったコーカサスオオカブトムシもとてもすべすべした堅そうな感じで、見た目も青い金属光沢ということで、怖そうに思いました。これらに比べ、日本のおなじみのカブトムシは、そういうすべすべ感はなく、頭から出ている角だけが大きくて、先端で3つに分かれていました。この先端の分れ方を触った時、私は小さいころに遊んだカブトムシの感触を懐しく思い出しました。
 そして最後に、何とも恐ろしげなダイオウサソリを触りました。長さは20cm近くあります。前には1対の巨大なはさみがあり、胴部分では多くの節が縦に連なっているのがとてもよく分かります。それに続いて尾があります。その先には毒針があるはずなのですが、それは取れていて確認できませんでした。節の連なりは、横に平行な浮き出した筋のように感じられ、各節の部分で少しずつ胴をくねらせながら這うのではと勝手に想像して(実際の動き方はまったく分からないのに)イメージで恐怖を感じていました。
 私がこうして標本を触っている時にも、しばしば子どもたちがやってきて、これは触れるのかと言って、触りはじめます。私は「花に触るように触るんだよ」と言ったりしました。見えない人はもちろんですが、見える人にも触ったり持ったりするちょっとした技術を教える必要があると思いました。

 昆虫館全体の展示からすれば、私が実際に触って観察できたのはほんのごく一部のはずです。でもサソリに触ったのはまったく初めてでしたし、また偶然触るのではなくじっくり時間をかけてチョウやカブトムシを触って観察できました。
 しかし、昆虫をはじめ動物など動くものを触って観察し理解することの難しさもあらためて感じました。たとえば、手に留まっているチョウは本当にそうっと触れるだけであちこち詳しく触って確かめる訳にはいきませんし、飛び立とうとした時も羽が一瞬動いたのが分かるだけです。また、カブトムシの標本を触っただけでは、どんなふうに脚を使って動き回り、角をどのように動かし、羽をどんなふうに広げて飛んでいるのかとかはほとんど想像できません。
 これらには触覚固有の特性(直接的な接触が必要でそれがしばしば対象物の変化をもたらすこと、ごく小部分の断片的な状態が分かるだけでそれを全体の形や動きに組立てるのは頭の中でしなければならないこと等)が関係しているので、そう簡単には解決できそうにもありません。でも、とりあえず今回のように学芸員のようなよく知った方が付き添ってくだされば、その方の説明によって少ない触覚からの情報でも少しは全体の形や動きをイメージできます。それに加えて、1種類の昆虫でも様々な状態の模型を作ってそれを順番に触っていくとか、たとえばカブトムシなら、標本のほかに、生態展示のケースに指穴のようなものを作ってそこから少しでも動いている様子を確かめられるようにする工夫はできないのかなあと思いました。

 橿原市昆虫館では、触覚のほかに、匂いや音でも楽しめるような配慮もされていて、とてもよい試みだと思います。視覚にあまりに偏重した社会・文化・教育の中にあって、視覚以外の様々な感覚の可能性にも気付き、それらを総合して自然をいわば体感するような体験が子どもにも大人にもますます必要になっていると思います。

(2001年10月31日)