堺市博物館の常設展と、「発掘された日本列島展」

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 10月4日、しばしば博物館などに一緒に行く仲間2人と堺市博物館に行って、常設展とともに、現在堺市博物館で開催中の「発掘された日本列島展」(11月3日まで)を見学しました。
 堺市博物館には2008年2月に一度行ったことがあって、その時は常設展でけっこういろんな物に触ることができたなあという印象でしたが、今回は「触らないでください」の表示があちこちにあって、あまり触ることはできませんでした。
 前回は、2000分の1の仁徳天皇陵(陪塚もふくむ)の模型、大阪湾から仙北地域までの古墳も配した地形模型、石棺、如意輪観音像、江戸時代の大砲(徳川家康が大阪城攻略のために作らせたという、長さ5m以上はある大筒で、丸は1kmくらい飛んだそうです)などのレプリカ、絨毯の大きな織機などに触れましたが、今回はその中で触れたのは江戸時代の大砲だけでした。鉄砲類としては、長さ3m以上、重さ135kgくらいもある大火縄銃(これも大阪城攻略のために100丁作らせたとか)や、左利き用の火縄銃なども展示されていました。
 今回新たに触ったのは、試着体験用の甲冑(重さは7kgくらいあるそうです)、および明治5年に台風による土砂崩れで仁徳天皇陵の前方部の石室が露出し見つかったという大きな長持形石棺(長さ2.6m、幅1.4m)の材料となった播磨地方の龍山石と大きな縄掛け突起の部分です(この石棺の復原模型が展示されていましたが、それには触れられませんでした)。
 今回の訪問で一番良かったのは、展示学習フロアにあった、世界の3代墳墓とされる仁徳天皇陵、秦の始皇帝陵、クフ王のピラミッドの大きさをそれぞれの模型で比較できる展示です。面積では仁徳天皇陵がずば抜けて広いですが、体積では秦の始皇帝陵、高さではクフ王のピラミッドが優位でした。
 それぞれの縮尺はよくは分かりませんが、たぶん6千分の1くらいだったように思います。資料によれば、仁徳天皇陵は、墳丘長486m 後円部径249m・高さ35.8m 前方部の幅307m・長さ237m・高さ33.9mで、さらにその周りに三重の濠があり、さらに周囲には円墳や前方後円墳などの陪塚が10個くらいあって、私の触った感じでは模型全体の長さ120〜130cm、幅1mくらいあったように思います。(なお、前方部から見つかった石棺については上でふれましたが、江戸時代の記録によれば、後円部の石室にも長さ3m以上、幅1.6m余の大きな長持形石棺があったらしいです。)
 秦の始皇帝陵は、大きな正四角錐を上から3分の2くらいの所で切り取ったような正四角錐台の形でした。実際の大きさは、底辺が350m、高さは76mだそうです。見た目では面積の広い仁徳天皇陵が圧倒的に大きく見えるようですが、触った感じではなんといってもこの正四角錐台のボリュームがすごいです。(実際には、始皇帝陵の周りには兵馬俑坑が広がっているので、もしかすると面積も仁徳天皇陵に劣らないほどだったかもしれません。)
 クフ王のピラミッドは、本当に正四角錐で高く上にとがっています。実際の大きさは、底辺の長さ220m、高さ146mだそうです。
 この3つの比較模型は、見た目と触った感じの違をよく示しているように思います。見た目では面積(広がり)、触った感じでは体積(ボリューム)が実感としてとくに強調されるようです。(面積では、仁徳天皇陵、秦の始皇帝陵、クフ王のピラミッドの順、体積では、秦の始皇帝陵、クフ王のピラミッド、仁徳天皇陵の順になります。)
 
 今年の「発掘された日本列島展」は、文化庁がこのような巡回展を1995年に始めてから20周年ということで、新たに発掘された物ばかりでなく、これまで20年間に発掘された物の中で重要文化財に指定された選りすぐりの名品を集めて展示するというものでした(さらにこれに加えて、「復興のための文化力」と題して、東日本大震災の被災地で復興事業に伴って行われている埋蔵文化財の調査結果も紹介されていました。)。全部でたぶん50箇所くらいの遺跡の出土品があったようですが、どれももちろん触ってみたりすることはできませんし、30分くらい学芸員による急ぎ足の解説を聴いただけで、十分に全体を把握することはまったくできませんでした。その中でも、とくに印象に残っている2つについて紹介します。
 1つは、北海道 の遠軽町に分布する白滝遺跡群出土の後期旧石器時代(約17000〜15000年前)の黒曜石の多量の石器類です。近くに赤石山は日本最大の黒曜石の山があり、湧別川の支流沿いにある白滝遺跡で計600万点以上、13トンもの黒曜石の多量の石器類(大部分は打ち欠いた後の廃石や製作途中のもので、日本最古の産業廃棄物とも言えるのではと言っていました)が出土しているそうです。中には、46cmもある石刃?もあるとか言っていました。そしてここの黒曜石は、北海道全域からサハリン中部まで運ばれていたらしく、また湧別技法と呼ばれる細石刃を作り出す方法も各地に広まったようです。(調べてみると、遠軽町全域はプレートの動きを観察できることなどで2010年にジオパークに認定されており、また、白滝遺跡群の石器類を収蔵展示している遠軽町埋蔵文化財センターでは、黒曜石を鹿の角でうすく割りながら尖頭器を作る体験などができるとのことなので、ぜひそのうち行ってみたくなりました。)
 もう1つは、茨城県の弥生時代中期の遺跡から見つかった人面が表現されている壺形の土器です。これは、死者をいったん葬って肉が落ちて骨だけになってから、その骨を壺形の土器に入れて再び埋葬する(「再葬」と言うそうです。沖縄にも、土葬後数年してから洗骨して再葬する風習があったはずです)ために使われた土器だそうです。口・鼻・目・耳が表現され、また入れ墨のような文様が見え、一部赤く塗られている所もあるそうです。1つの再葬墓からはいくつも骨壺が出てきますが、人面が表現されたものはその中の1つだけに限られていることが多く、たぶん村の有力者だろう、そして、土器を作る時には、もしかするとその人をしのびその人の顔に似せて人面を造形したのではないだろうかと言っていました。
 その他にも、三内丸山遺跡の板状土偶(大きいのでも手のひらサイズくらいだそうですが、表情がゆたかだとか)や真ん中に縦の穴が貫通した大きな翡翠の玉、吉野ヶ里遺跡の棺用のとても大きな甕棺(2個で1組になっているそうです)など多数ありましたが、なにしろ次々と解説が進んでいってほとんど素通りの状態になってしまいました。でもこれだけの名品を集めた展覧会ですので、できればもう一度行ってもっとじっくり解説を聴いてみたいものです。
 
(2014年10月13日)