広島市現代美術館――現代彫刻にふれる

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 3月13日の午前、広島市現代美術館を訪問し、スタッフの案内で主に野外の彫刻作品を鑑賞しました。
 9時半ころ広島駅に到着、そこからタクシーを利用して比治山にある現代美術館に向いました。比治山はJR広島駅からほぼ南の方に1km余離れた、南北に細長い小高い丘のような所(南北1km弱、東西3〜400mくらい)で、一番高い南側のピークでも70mくらいだそうです。このくらいの高さでも、比治山は広島市の眺望地として知られているとか。広島市現代美術館は、高さ40mくらいの北側のピークにあります。(ちなみに、1945年8月6日の原爆投下では、爆心地の東側にあったこの小高い岡に遮られて、比治山の東側の地域はあまり大きな被害はなかったと、タクシーの運転手さんも話していました。なお、山頂付近には放射能影響研究所(旧ABCC)があるそうです。)広島の市街地のかなりの部分は、江戸時代初めに広島城が築造されて以降に干拓や埋め立てで出来た低湿な土地で、比治山をはじめ江波山や黄金山などは以前は島だったそうです。(北側に湾曲して走っている山陽本線の南側は、むかしは大部分海だったようです。)
 また比治山の南麓には、縄文時代後期から晩期にかけての(3000年前〜2500年前ころの)貝塚があるそうです。この貝塚から出てくる貝の種類からも、陸化の過程が推察できるようです。貝塚からは約40種類の貝が確認されていて、最も多いのはハマグリで全体の70%を占め、これにカキ、アサリ、シオフキ、カガミガイ、ハイガイ、アカニシなどが続きます。おもしろいことに、塩分の多いところに棲息するアサリは上層になるにつれて減少し、河口など淡水の入り込むところに多く棲むハイガイは逆に上層ほど増えているそうです。これは、貝塚ができ始めた頃、比治山のまわりは完全な海だったものが、縄文時代晩期には、太田川が運んでくる土砂によって一部干潟のようになり、北側は陸続きになっていたと思われます(県史跡 比治山貝塚 。比治山の回りが南側もふくめすべて陸地化するのは、江戸時代中期のことのようです。現在は、比治山から南の海岸線までは2km以上あります。)
 
 つい話が美術鑑賞からそれてしまいましたが、比治山の広島市現代美術館には開館時間の10時よりだいぶ前に到着、玄関前から階段を下りて少し道を歩き回り、木(私が触ったのはたぶん桜のようだった)などに触れたりして時間を過ごしました。10時とともに私もふくめ数人が入館、私は早速スタッフの方に案内してもらって、まず野外の彫刻10点近くを30分余で解説してもらいました。その後館内に入って、開催中の
コレクション展2016-I あふれる「せい」― 生、勢、盛、精
も30分くらい簡単に案内してもらいました。まさにこんなのが現代美術と言われるものなのか、という感じで、私にはあまりよくは分からないものが多かったです。ただ、十和田市現代美術館でも説明してもらったことのある草間彌生の作品が数点展示されていて、説明してもらいました(被爆50年記念ということで制作したという「よみがえる魂」(1995年)は、珍しくカラフルではなく、黒っぽい背景に白の無数の水玉がゆらゆらと立ち上っていくような感じのようだとか。その他「ザ・マン」など彼女らしい作品もありました)。草間彌生のほかには、私が名前を覚えているものだけですが、荒木経惟、カレル・アペル、篠原有司男、白髪一雄等の作品がありました。面白かったのは、途中からですが、私が説明してもらっている後ろから数人の来館者が一緒に回り始めました。その方たちにとっても、現代美術はスタッフの解説があることでよく分かるようになるようでした。ただ、スタッフの方がそのような見える来館者を意識して解説し始めると、私には時々どこを説明しているのか、なんのことなのか分からなくなることがしばしばでした。
 以下に、当日実際に手で触れて鑑賞した彫刻10点近くを紹介します。
 
●「小さな鳥」 1988年 ブロンズ
 (フェルナンド・ボテロ作。 Fernand Botero: 1932年生まれ。コロンビア出身。12歳で画家を志し渡欧。1960年ニューヨークに移住、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が絵画「12歳のモナリザ」を購入、その大胆なデフォルメとふくよかな表現で画家として有名になる。1970年代から彫刻を始める)
 横幅が1m30〜40cmくらいで、高さも奥行も1m余はある、大きな鳥?。どこもかしこもつるつるした手触りで、どこにも角張った所はなく、すべて丸っぽいふくらみで表現されています。前には、丸っぽいくちばし、頭部、目、下には脚、両横には斜め下に羽のふくらみが伸び、後ろにはぽこぽことした大きな丸が5つ並んでいます。形は大きいですが、なんだかユーモラスなかわいい鳥といった感じです。
 
●「Earth Call Hiroshima(地球電話ー広島)」 1996年 石
 (岡本敦生(あつお)作。 1951ー。広島市生まれ。多摩美術大学大学院彫刻科卒業。工芸、彫刻家)
 高さ 2mくらいある石の建物のようなもので、中に電話とマイクが入っているようです。音が聞こえやすいようにということでしょう、石の建物にはあちこち小さな窓のような開口部があります。作品の中の電話の電話番号は、
082-263-0540
で、ここに電話を実際にかけてみると、2回ほどの呼び出し音の後につながって、回りの音が聞こえます(私が電話した時は、風の音や遠くの車の音が聞こえました)。この作品の近くにいる人には電話をかけた人の話す声は聞こえますし、電話をかけた人は電話の回りにいる人と話をすることができます。この電話は、日本のどこからでも、また世界のどこからでもつながるそうです。人気があるようで、美術館から帰る時にも、電話をかけた人と回りの人たちの楽しげな話し声が聞えていました。この電話、話し声が回りの人たちだれにでも聞えて、開放的なのがいいですね。
 
●「ヒロシマ my sky hole 88-5」 1988年 コールテン鋼、ステンレス
 (井上 武吉(ぶきち)作。奈良県出身。武蔵野美術大卒。鉄や石を素材とした環境彫刻で知られる。1979年「溢れるNo8」で第1回ヘンリー・ムーア大賞展優秀賞。1981年から「my sky hole」シリーズを連作。彫刻の森美術館や池田20世紀美術館の設計も手がけた)
 地面から、高さ1m弱、幅3m余の細長い弧状のふくらみが突き出しています。表面は少しざらついた手触りで、ちょっと錆付いた金属の感じです。弧状のふくらみの片面は平面で、反対側の面は球面の一部のような形です。地面の砂利をよけて触ってみると、この立体は地面に置かれているのではなく、地中に埋められていて、その一部が地上に出ていることが分かりました。この弧状のふくらみの中央には直径20cm余くらいの穴があって、その奥にはステンレス製のつるつるの球があります(私は杖を入れて確認してみました)。穴をのぞくと、そのステンレス球に自分の顔が写るようです。さらに、この大きな弧状の立体の向い側にも、はの字に開いたような配置で、高さ20cm弱、幅1m半くらいの小さな同様の弧状のふくらみがあります。
 作品全体としてどんなイメージなのかはよくとらえられませんでしたが、地上に出ている部分から、地中に埋まっているより大きな作品全体を想像できるのがいいですね。
 
●「四角い石と丸い石たち」 1988年 石
 (山口牧生(まきお)作。1927〜2001年。広島県生まれ、彫刻家。1950年京都大学美学科卒業、大阪市立美術研究所で彫刻を学ぶ。大阪府能勢の採石場近くで制作したとか)
 これはなかなか面白い作品でした。高さ50cmくらい、1m半四方くらいの四角い石の上に、直径20cmくらいの丸いごろっとした石が2個乗っています。また、この四角い石の隣りには、直径40cm余の丸い石が置かれています。四角い石も丸い石たちも、表面は数cmから10cmくらいの間隔で少し削られわずかに窪みがつけられています。
 四角い石の上にある丸い石は2個とも自由に転がしていいです。実際に転がしてみると、四角い石と丸い石の表面にあるわずかな窪みや出っ張りの部分が互いに擦れ合うためなのでしょう、ごろごろ、ぐるぐりっ、ごろっ、などいろいろに音が変わり、その手ごたえも細かく変化します。また、丸い石を揺らすと、そのゆらぎが少しずつ小さくなりながら長く続き、その振動が次第に細かくなって微妙に消えていくのを手で感じることができます。とても触覚優位の作品のようです。
 
●「根香」 1988年 石
 (空充秋(そらみつあき)作。1933〜。広島県生まれの彫刻家。本名:田中充昭)
 幅50cm前後、厚さ20cm余くらいの御影石がいくつも組合わされ積み上げられています。高さは2m以上あるようです。御影石の色は白っぽいもの、黒っぽいもの、赤っぽいものなどいろいろのようです。下の根元の部分は広くなっていて、石がいくつも斜めに組合わされて次第に細くなり、その上にほぼ垂直に石がまるでレゴブロックのように互いにはめこまれるようにして積み上げられています。どっしりと天に向っているようで、なかなかいい感じでした。
 
●「石で囲う」 1997年 石
 (菅木志雄作。1944〜。森岡市生まれ。画家、彫刻家。「もの派」と呼ばれる人たちの1人だそうです)
 高さ60、70cmくらいのどっしりとした石が12個、それぞれ間を置いて四角く並んでいます。石は上の部分の両側が長方形に切り取られていて、両側が椅子代わりに座れるような感じになっています。手を加えているのはその部分だけのようで、下のほうはざらざらしたふつうの石でした。みんなでこの椅子もどきに座ってお話しでもするような光景がうかんできます。
 
●「ヒロシマ-鎮まりしものたち」 1992-93年 ブロンズ
 (マグダレーナ・アバカノヴィッチ(Magdalena Abakanowicz)が、広島被爆50年を記念して制作したもの。1930〜。ポーランドの女性彫刻家。1950〜55年東欧の動乱期の頃、ワルシャワ芸術大学で彫刻と絵画を学ぶ。1980年ベネチア・ビエンナーレに布のオブジェ「エンブリオ(胎生)」を出品)
 なんとも衝撃的な作品でした。高さ60、70cmくらいの、表面がざらつき触るとときには痛々しいような立体があちこちに置いてあります。形はお椀を縦に半分に割ったようなもので、それが開いたほうを前にして地面に立っています。何を表わしているのかなかなか分かりません。「ケロイド」を表わしていると聞いて、胸にぐっときました。椀状の形は背中で、その表面のざらつきや痛いほどのぎざぎざはケロイドだったのです。上半身は首も手もなく背中だけの人が、足を前に投げ出すようにして地べたに座っています。そういう立体が40個もあちこちに置かれていて、その背中のケロイドを触ってみると、避けて盛り上がっているもの、一部えぐれているもの、うねうねと盛り上がっているもの、いくつも線が走っているものなど、それぞれケロイドの状態は異なります。そして、この40個のもの言わぬ立体はいずれも同じ方向、ここから北西に2kmほど離れた所の爆心地=原爆ドームの方向を向いているそうです。この首も手もない人たちが、何を思い祈っているのでしょう!
 アバカノヴィッチは、戦争や動乱の只中を身をもって体験した人のようで、抑圧されている人たちの厳しい現実を、このような、首や手など身体の一部のない姿でよく表わしているそうです。昨年4月に、名古屋市美術館で、アバカノヴィッチの「智者の頭(Sagacious Head)」と「黒い立像(Black Standing Figure)」に触りましたが、「黒い立像」は身体の前面だけで、首と前腕から下がありませんでした。
 
 最後に、これらの彫刻がある展示場所から階段を下りて、ヘンリー・ムーアの「アーチ」のある所まで案内してもらいました。高さ6m以上もある大きな門のような作品で、私が触れたのは1m半くらいの間隔で立っている2本の楕円形の太い脚(胴体のようでもありましたが)の部分だけで、残念ながら全体のイメージについては、言葉による説明を聞いてもあまり思い浮かべることはできませんでした。(この作品の近くには、原爆被災説明板が設置されているそうです。)
 
 *13日の午後は、広島工業大学で、初めて「力覚デバイス」を体験しました。中学・高校の視覚障害の生徒の物理の教育に力覚デバイスを応用できないかという研究が行われていて、その評価実験と意見交換ということで、放物運動、惑星の公転運動、振子の運動などを体験しました。
 
 (2016年3月23日)