愛宕念仏寺と化野念仏寺

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 6月26日、愛宕(おたぎ)念仏寺と化野念仏寺に行きました。
 
 嵐山からバスに乗り鳥居本で下車、そこは化野念仏寺のすぐ近くなのですが、まず10分ほど歩いて愛宕念仏寺に向かいました。
 愛宕念仏寺でまず驚いたのは、石像たちの多さ!そしてその表現がなんとも多彩なこと!です。
 私は手の届く範囲のものにしか触れられませんが、それでも次から次へと、何が何だか分からなくなるほど触りました。30cm四法で高さ50cmくらいの上半身像、それよりやや大きくて高さ1m弱の全身像です。平らな地にきれいに並んでいるものもありますが、斜面に何段にも並べているものもあります。安置してからまだ30年前後くらいしか経っていない像たちですが、湿気の多い環境なのでしょう、多くはすでに苔生していて、それがまた触って意外と心地よいものです。例えていうなら、鬘を被ったり衣を纏ったりしているようにも感じます。さらに、頭の部分に地衣類が生えているのでしょう、かさかさと乾いた感じの毛のようなのが密生していてまるで髪の毛に覆われているようなものもありました。
 笑っている顔、怒っているような顔、頬杖をついて考えているような姿、鼻がぐにゃっと曲がった変な顔、しっかりと合掌している姿、手のひらを前にしてまっすぐ立てて広げていたり、何かを大事そうに胸に抱き締めていたり、さらには、テニスラケットでボールを撃つ瞬間の姿とか、2人が向い合って1人が盃をを持ちもう1人がお酒を注いでいるような像など、とても記憶し書き切れないほど多彩な姿の像たちがありました。
 これらの像たちは、前住職で仏師として有名な故西村公朝氏(1915〜2003年)が、「仏師でなくても、祈る気持ちさえあれば誰でも仏像を作ることができる」という考えのもと、境内を釈迦の弟子・五百羅漢の石像で満たそうと1981年に発願、全国から奉納希望者が殺到し500体は1年間で完了。さらに彫りたいという希望者が増えて700体を彫ることにし、合わせて1200体が1991年に完成。釈迦が入滅した時、教えを正しく伝えるため高弟500人が集まった第1結集、100年後に700人が集まった第2結集にちなんでいるとのことです(西村公朝が伝えたかった仏の心 後編)。
 
 次に見学したのが「三宝の鐘」。一つの鐘楼に、直径30cmくらい、高さ50cm弱ほどの鐘が、手前に2個、奥に1個下がり、その真ん中に直径30cmほどの鐘を突くための木製の撞木が下がっています。撞木を揺らして三つの鐘を順に鳴らしてゆくと、それぞれ音色が少しずつ異なり、それらが大きく共鳴し合って、心に深く染み入るような響きが体感されます。これら三つの鐘の音は、仏・法・僧の心を伝える音だということです。各鐘の側面を触ると、左手前の鐘には「佛」、奥の鐘には「法」、右手前の鐘には「僧」の文字が大きくしっかりと浮き出しで描かれていて、それぞれの文字の形を具体的に知ることができました(佛はにんべんに弗、法はさんずいに去(土の下にム)、僧はにんべんに曽(増などのつくり))。
 
 次に見学したのは、ふれ愛観音堂の「ふれ愛観音」です。このブロンズ制の観音像は、西村公朝氏が目の見えない人たちにも触って仏との縁を結んでもらおうと1991年に制作・鋳造したものです。仏像はふつう、目の見える人たちが造り、目の見える人たちが目で見て拝んでいるわけですが、本来、仏の愛と慈悲の心は文字通りあらゆる人たちに届くはずのものです。見える・見えないとかにかかわらずだれもがこの観音様にふれることで、仏の愛と慈しみのはたらき、そして人々の敬愛と救いを求める念が交流し共有できるのかもという願いから制作されたもののようです。そして、そのような機会をできるだけ提供しようと、このふれ愛観音は、愛宕念仏寺だけでなく、全国60箇所ほどのお寺に安置されているということです。
 大きさは直径60cmほど、高さ1mくらいで、坐像です。全体に滑らかで均整のとれた姿、合掌し、ふっくらとした御顔、目をぱっちりと見開きこちらを見ているお姿からは、なにかあたたかい眼差しが感じられます。衣の襞や、鉢巻のようなもので止められている髪の束の曲線など、触ってとてもきれいです。
 このふれ愛観音像は、国立民族学博物館で2006年に開催された「さわる文字、さわる世界」展にも展示されていたことがあって、私は10年ぶりにこの観音様に触りました。同じ物を触っているわけですが、以前に民博の展示会場で触った時よりも、場所や雰囲気のためなのでしょう、今回のほうがずっと好ましく感じました。
 
 帰りがけには、入口の門の所で、仁王さんのように門の両側に向い合って置かれている2つの像に触りました。高さは40cmくらいだったでしょうか。向って右側の像は、両手にそれぞれ鉄アレイのようなもの(両端がボールのような形で、その間が棒になっている)を持ち、口は小さめで開いています。向って左側の像は、胸のあたりになにかラッパを思わせるようなものが広がっていて、口を引き結び、牙が2本上に向っています。係りの人に尋ねてみると、風神と雷神の像だということでした。
 
 愛宕念仏寺で1時間半近く過ごした後、化野念仏寺に向かいました。
 化野念仏寺にも、石塔や石仏があふれていました。これらの石塔・石仏たちは、高さ30cmくらいのものから大きくても50〜60cmくらいのものがほとんどのようです。かなり古いと思われるものが多く、すでに顔かたちが分からないほどに風化しているものもありましたし、なにか手を加えていることは分かりますが仏の像なのかどうかも判別しにくいようなものまでありました。石塔は3段になっているもの(下が四角くで、真ん中と上が丸)が多く、5段やそれ以上のものもありました。
 石仏は大部分はお地蔵さんのように手を合わせているものが多かったです(愛宕念仏寺にあった石像のようには多彩ではありません)。とくに西院(さい)の河原という所には、小さめの石仏が整然と無数ともいえるほど並べられていて、細い道をたどりながら、並んでいる石仏たちをたくさん撫でて回りました。
京都では平安時代初めまでは亡くなった人の遺体を洛外へ運び出して野ざらしにする、いわば風葬が行われていて、嵐山の北のこの辺りはその風葬の地だったらしいです。(他に、東山の鳥辺野や船岡山の北西一帯の蓮台野(紫野)も葬地として知られている。当時は、仏教の影響で一部の貴族では火葬が行われていたが、一般庶民派風葬ないし土葬だった。とくに貴族中心で人口も密集している洛中では、死が忌まれて、庶民の遺体は洛外に放置されやすかったのではないだろうか。ちなみに、私が生まれ育った村では、昭和30年代まで土葬が行われていました。)『徒然草」の第7段の初めには「あだし野の露きゆる時なく、鳥辺山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん。」とあって、化野は鳥辺野とともに、人生の無情を想起させる地だったようです。
 言い伝えでは、化野念仏寺は、811年空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに由来するそうです。その後、鎌倉時代初期に法然が念仏道場を開き浄土宗の念仏寺になりました。さらに、明治30年代には、周辺に散在していた8000体ともいわれる多数の小石塔や石仏を集めて無縁仏として祀るようになったとのことです。今も毎年、8月の地蔵盆にはこれらの石塔・石仏に灯を供える千灯供養が行われているそうです。私が西院の河原などで触った多くの石塔や石仏は、この時に集められた、数百年は経っている石塔や石仏なのでしょう。なお、西院の河原の近くだったと思いますが、ブロンズ制?の如来像(たぶん阿弥陀如来だと思います)がありました。高さ30cm余の坐像で、頭部はカップのような盛り上がり(肉髻)になっていてちいさなつぶつぶ(螺髪)があり、眉間には小さな丸い白毫もあります。また、両手を膝の上で合わせて各手の親指と人差し指で輪をつくっています(この印は上品上生だと思います)。無縁の石仏たちを見守っているかのように思いました。
 私が愛宕念仏寺で驚いたのは、首のない石仏が、1体や2体ではなく、多数あったことです(私は10数体は触りました)。それも、頭部が風化してしまってなくなったとか、頭部をなにかにぶつけて割ったというのではなく、多くは首の部分できれいに切断されたようになっていました。今は、これらの首なし地蔵の首の上にはどれにも小さな石が乗せられています。中には、首ではなく、胸の部分でスパアーッと切断されていて(腕も上腕の付け根あたりから上はない)、なんとも惨いとしかいいようのない像もありました。なぜ、このような首なしの像がたくさんあるのでしょうか?理由はよくは分かりませんが、その1つとして、1868年に出された神仏分離令をきっかけに全国に広がった廃仏毀釈の激しい運動があったように思います。
 
 今回の愛宕念仏寺と化野念仏寺の見学では、一般の人たちの仏教とのかかわりにふれたような気がします。とくに愛宕念仏寺の自由奔放な石仏たちはとても印象に残りましたし、また化野念仏寺の首のない地蔵さんたちは忘れられません。
 
(2016年7月4日)