老感覚にまなぶ

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 私は最近、自分の感覚の全般的な衰えを「老感覚」と言っています。そういう感覚の衰えに気が付いたのはすでに10年くらい前からですが、説明するためにはやはり名前があったほうが良いということでこのように名付けました。できれば皆さんにもそういう状態について知っていただきたいと思い、機会があれば周りの人たちにも話しています。
 「老感覚」は、単純に「老眼」になぞらえて名付けただけです。でも、老眼は視覚だけについて言っているのにたいし、老感覚はいろいろな感覚の衰えを指し、とくに反応時間や一瞬の判断力、さらには各感覚の間のアンバランスなどもふくんでいます。そういう意味では「老知覚」と言ったほうが適切なように思いますが、ごく身近な言葉で「老感覚」としています。

 いろいろあるのですが、いくつか例を挙げてみましょう。
 私の家の廊下と台所の境にはうすい板製の開き戸があります。以前はその戸が開いているかどうかはたいして意識するまでもなく(いちいち触らなくても)分かっていたのですが、最近ははっきりとは判別できなくなり時々触って確かめなければなりません。
 また、部屋に入った時、以前でしたら、おおよその部屋の大きさとかどの方向に窓があるか、またその窓が開いているかどうかもかなり確実に分かりましたが、今はそういう部屋の様子がなかなかつかめなくなり、たまには実際には窓が開いているのに窓を開けようとしたりして、自分の感覚の衰えを実感したりします。

 安全に一番係わるのは、歩行中のことです。
 私の歩き方の特徴の1つは、歩く速度が速いことです。慣れた道だと、見える人が私を見かけてもなかなか追いつけないと言います。若いころはつい小走りになっていましたし、階段もよく1段飛ばしで上っていました(階段は今でも運動と感覚の訓練のためしばしば1段飛ばししています)。なぜ速く歩くかというと、そのほうが真っ直ぐ歩くことができ、また方向や距離も正確に取りやすいからです。私の歩行経路を図にすれば、いくつかの直線が90度とか45度とか30度とかでつながったようになっていて、曲線部分はあまりないと思います。
 私がこのような歩き方をしていた、できていたのには、主に2つの要因があったように思います。
 一定の速さで速く歩くと、もちろん路面の様子や周りの建物や壁などの様子も参考にはしているのですが、その運動だけで自然に身体が方向を知り、また、たぶん時間感覚によるのだと思いますが、だいたい距離も分かってきます。運動と、身体自身の方向や距離を知る能力とには、相乗効果的な関係がありそうです。
 もちろん、速く歩くとそれだけぶつかったり落ちたりする危険は増すのですが、大きな障害物だと少くとも 1、2メートル手前から分かっていましたし、実際にぶつかったり落ちたりする時もその寸前に「あ、ぶつかる!」「落ちる!」と判断して瞬間的にそれに備えた体勢を取ることができたので、たいした怪我もなく済みました(実際には、たまには額を切ったりはしていました)。障害物知覚および瞬間的な判断力とそれに呼応した身体の動きによって、それなりに安全が確保されていたのです。
 ところが、10年ほど前から、まず、おそらく0.1秒とか0.2秒とかの短い時間での判断力、それに応じた瞬時の身体の構えが難しくなってきました。そして最近は障害物知覚もだいぶ衰えてきました。
 こうなると、速く歩くのはとても危険です。そこでやむなく歩くスピードを落とすのですが、そうするとこんどはあまり真っ直ぐ歩けず方向を見失ったり、距離感が不正確になってその辺をうろうろしたりします。
 今は、前よりは少し遅い速度で歩いても何とか方向や距離をとれるようにと心がけています。そのために、以前よりも周りの様子にかなり注意を向けるようになりました。神経はかなり疲れるのですが、以前にはあまり気付かなかった周りの様子、音の変化や空気の動きや匂いなどにも注意するようになってきました。

 さて、このように私が自分の歩き方やその特徴などについてよく考えるようになってきたのは、感覚が衰え今までの歩き方が難しくなってきてからです。また最近は、私の速く歩く歩き方がしばしば周りの人たちにはとても迷惑になっていることにも気付くようになりました。見える元気な人たちがぼうっとしていて私の杖にひっかかり、ときには転んだりするのは、まあその人たちの不注意が原因だと言えますが、足のわるい人たち、歳をとってゆっくりとしか歩けない人たち、さらには他の見えない人たちは、私を避けようと思ってもそうできず、とてもとまどったり、ときには恐怖感を抱かせてしまっているようです(実際、たまにそういう人たちにぶつかってしまい、とても申し訳なく思うことがあります)。いろいろな人たちが街を歩いているのですから、私もその人たちのことも配慮しなければならないのです。
 これまで自分の身体が覚え込んできた運動の仕方を変え調整することはかなりたいへんな作業です。でも、そのお陰で、たいして意識することもなかった自分のいろいろな感覚やその使い方を考えるようになり、また周りのいろいろな人たちのことにも考えが及ぶようになってきたように思います。

(2002年4月16日)