絵の中の見えない人たち

上に戻る


 
◆はじめに
 私が浮世絵や屏風などに描かれている見えない人たちについて興味を持つようになったのは、3月29日、名古屋ボストン美術館で開催中の「三菱東京UFJ銀行貨幣資料館所蔵 歌川広重 東海道五拾三次展」関連で行われた「さわって楽しむ広重!」に参加したのがきっかけです。
 視覚障害者対象のプログラムが始まるまでだいぶ時間があったので、この展覧会の音声解説を聞いてみました。全体についての簡単な解説の後、江戸日本橋から京都三条まで、20点弱の作品について解説がありました。その中の「藤澤 遊行寺」の中で、杖をついた座頭がおそらく江の島神社?に向っているらしい、というような説明がありました。プログラムが終わってから担当の学芸員に尋ねてみたところ、このほかにも、「二川 猿ヶ馬場」では3人連れの瞽女さんが三味線をかかえ、かしわ餅の店に向っているらしい様子が描かれ、「赤阪 旅舎招婦ノ図」にも、旅籠で働くいろいろな人たちとともに按摩さんが描かれているとのことです。また、帰宅してから調べてみると、「蒲原 夜之雪」では、夜の雪道を長めの杖で足元を慎重にさぐって歩いているような姿が描かれていて、もしかすると按摩の仕事をしに行く見えない人かもしれない、と思ったりしました。当時人気のあった広重の東海道五十三次の錦絵全55点中3点(あるいは4点)に、見えない人たちの姿も他の様々の人たちとともにごく自然に風景の一部として描かれていたことに、私は驚き、またなにかうれしい気持ちになりました。たぶん見えない人たちというよりも、旅人や職人さんなどふつうの人たち同様に仕事をして暮らしている様子が風景の中に描かれているらしい(想像ですが)ということに、なにか心が明るくなるような印象を受けました。
 その後、知り合いに教えてもらったり、博物館に行った時に学芸員の方に教えてもらったり、また自分で調べたりして、屏風や社寺参詣曼荼羅などにもしばしば見えない人たちが描かれていることを知りました。以下に、各作品にどんな風に見えない人たちが描かれているのか紹介します。
 
 
◆歌川(安藤)広重『東海道五拾三次』(保永堂版 1833〜34年)
 以下の4作品については、点訳ボランティアのTさんに画像を見て解説文を書いてもらい、それを私が編集・加筆しました。
 
●藤沢 遊行寺
 前景、中央やや左寄りに大きな鳥居が描かれています。(この鳥居は、弁財天を祀る江島神社の鳥居のようです。江島神社には、杉山和一がここで管鍼術を考案するヒントを得たという言い伝えがあります。)
この鳥居を、画面に向かって左から右へ、4人の座頭が通り抜けようとしています。4人は、それぞれ右手に杖を持っています。大きな風呂敷に包んだ荷物を背負っています。この4人は杉山和一にあやかって江島詣でをした帰りなのかも知れません(絵には江島神社は描かれていないが、画面左方向に江島神社があるらしい)。
 鳥居の左奥に橋がかかっています。(この橋は、境川に架かる大鋸(だいぎり)橋です。)。その橋を二人の女性が手前から奥へ渡ろうとしています。橋の上の男性は、木太刀を担いで奥から手前のほうに向っています(この木太刀は大山詣で納める木太刀のようです)。
橋の向こうに宿場の町並みがあります。
さらに遠く、向こうの山の上に遊行寺が見えます。
*藤澤宿:東海道五十三次の6番目の宿場。時宗の総本山 遊行寺の 門前町として発展し、また江の島・鎌倉・大山詣りの分岐点として大いに賑わった。
 
●蒲原 夜之雪
 画面に向かって左から右へ、雪の積もった上り坂になっています。坂の向こうには、民家が並んでいます。どの屋根にも雪が積もっています。民家の向こう(画面左寄り)には、雪山が連なっています。
 画面からは、音が雪に吸収されたような「静寂」が伝わってきます。
 坂の左寄りの人物(一人)は、左に向かって坂を下りています。番傘を半開きにし、杖をつき、雪下駄(歯を高くし、雪がはさまらないように歯を前のめりにしたもの)を履いています。背中を丸めて膝を曲げ、小さな歩幅で注意深く進んでいます。(この人が見えない人かどうかは分かりません。もしかすると、按摩の仕事で近くの宿屋に行くところかもしれません。)
 坂の右寄りの人物(二人)は、右に向かって坂を上っています。前を歩く人は菅笠に合羽を着ています。後ろを歩く人は蓑笠を着ています。二人とも背中を丸めて歩いています。
 *蒲原宿:東海道五十三次の15番目の宿場。現在の静岡県静岡市清水区付近。この地はそんなに雪深い所ではないので、このような構図は作者の心象風景なのかも知れません。
 
●二川 猿ヶ馬場
 背景は寂しい感じの丘陵地帯で、小松が群生した野が広がっています。
画面左端のやや下辺りに茶店があり、「名物かしは餅」の看板があります。その看板の下では、旅人(男性)が柏餅を買い求めています。
 画面中央には3人の瞽女が描かれています。瞽女たちは、画面右下から続くゆるい上り坂を、画面左端の茶店のほうに向って疲れたような足取りで歩いています。
3人とも三味線を肩に担い、大きな風呂敷包みを背負っています。真ん中の一人は笠をかぶり、前後の二人は姉さん被りをしています。前の人は左手で杖を持ち、右肩に担いだ三味線の棹に右手を添え、後ろを振り向き加減のようです。後ろの人は右手で杖を持ち、左手で風呂敷の端をつかんでいます。真ん中の人は、杖を持っているかなどよくは見えません。
 *二川宿:東海道五十三次の33番目の宿場。三河国最東端の宿場町で、現在の愛知県豊橋市二川町と大岩町付近。猿ヶ馬場は、遠江の国の西端(静岡県湖西市)に広がる丘陵地帯で、小松の原は景勝地とされ、また街道筋には名物として旅人に好まれた柏餅を売る茶屋があり繁盛していたと言うことです。
 
●赤阪 旅舎招婦ノ図
 宿屋の中庭の上の方から部屋を見下ろす角度で描いた図。
 画面中央の中庭に、大きな蘇鉄が画面を左右に区切るように描かれています。
 蘇鉄の左側は縁側になっていて、そこに風呂上りと思われる男性が立っています(着物の片袖を脱いで肩があらわれ、手ぬぐいを肩にかけている)。
 縁側に続いて障子越しに部屋があり、くつろいで寝転がっている男性が見えます(右肘をついて右手に煙管を持っている)
 その奥に、襖が開いており、女中が客膳を部屋へ運び入れようとしています。
 女中の横(画面左側)に、按摩(と思われる人)が正座していて、両手を膝の上にそろえ、くつろいでいる男性に丁寧に挨拶しているような印象を受けます。
 蘇鉄の右側の部屋では、二人の遊女が鏡台をはさんで向い合って、念入りに化粧をしています。
 遊女たちの奥には布団が積まれています。
 *赤阪宿:東海道五十三次の36番目の宿場。現在の愛知県豊川市赤坂町付近。広重がここに描いているのは、創業1649年、2015年まで続いた旅籠「大橋屋」の中庭だということです。
 
 
◆『彦根屏風』
 知り合いから『彦根屏風」に盲目の三味線の師匠が描かれていることを教えてもらいました。早速、4月29日Kさんと一緒に、彦根城博物館で開催中の特別公開「国宝・彦根屏風」展に行きました。実物はやはりくすんでいて、複製品のほうが細かい所などよく分かるようでした。とくに複製品の各部分の画像を拡大して見られる「ルーペで見る」の機能があり、これを使ってKさんに画中の15人の各人物を中心に詳しく説明してもらいました。Kさんの説明とともに、以下のページも参考にしながら、私なりにまとめてみました。
風俗図(彦根屏風)
国宝彦根屏風の共同研究調査
作者不明《風俗図(彦根屏風)》無常の美──「木文恵」
「彦根屏風」について
 彦根屏風は国宝になっていて、その指定名称は「紙本金地著色風俗図」となっています。井伊家12代井伊直亮(1794〜1850年)が「菊岡」という出入りの楽器商から「揚屋之図、マクリ*」を購入したとの記録があり、以降彦根藩主井伊家に伝えられたため「彦根屏風」と通称されるようになったようです。
  * マクリ(捲り):屏風・ふすまなどにはってあった書画をはがしたもの。また、表装しないでおいてある書画。
 
 6曲1隻、大きさは縦94cm、横271cmです。注文主も作者も不明です。作者については、明治初めまでは、江戸初期に風俗画も描いた岩佐又兵衛(1578〜1650年)ではとも考えられていましたが、現在は漢画の素養や計算し尽くされた構図などから狩野派の絵師ではないかと推定されています。また、注文主ないしこの画を見られる限られた人たちは、作者がこの画に描き込んだ、漢画(琴棋書画*1)や能(謡曲の『芭蕉』)あるいは仏教説話(維摩居士のイメージ)などを背景とした様々な意味合いを解し得る人たちだったのでしょう。制作時期は、寛永年間(1624〜44年。私の推測では、おそらく1630年前後)と考えられ、当時の遊里の様子が描かれています。描かれている遊里は、京都六条柳町(通称三筋町)の遊里*2と推定されています。当時の遊里は、娯楽・文化サロンでもあり、最新ファッションの発信地でもあったようです。
  *1 琴棋書画:中国で士大夫の身につけるべきものとされた琴と碁と書と画の四芸。日本でも室町時代以後画題としてしばしば描かれた。彦根屏風では、三味線が琴、双六が碁、女性が読む文と男性が書く文が書、第5扇と6扇の背景になっている画中画の山水画が画に見立てられている。
  *2 柳町の遊里:1589年、豊臣秀吉が馬丁の原三郎左衛門・林又一郎に京都二条柳町に遊里開設を許可。1602年、二条城築城のため、二条柳町の遊里を六条へ移転させ、三筋町と呼ぶ。1630年、六条柳町(三筋町)の遊郭移転計画が出される。1640年、京都所司代板倉重宗が六条柳町の遊里を九条朱雀の西新屋敷(島原と呼ばれるようになる)への移転を命じる。(遊女・遊郭年表より)
 
 彦根屏風には計15人の人物が、9種の色を使ってとても精緻に描かれています。男性4人と女性11人です(女性11人のうち3人は少女=禿(かむろ))。彦根屏風は、平面に広げて見るよりも、順に山折り谷折りになっている状態(第1扇と2扇、第3扇と4扇、第5扇と6扇が向い合うように対になっている状態)で見たほうが、構図がよく分かり、各人物の関係性もよく分かるようです。
画面は、大きく、右側の 2扇と左側の 4扇の 2つの場面になっています。左側4扇は室内の様子ですが、右側の2扇は室内なのか戸外なのかはよく分かりません。以下に、各扇に描かれている人物を示します(人物の表現は、上の「国宝 彦根屏風 共同研究調査」のサイトで用いられているものです)。
第1扇 椿を持つ少女、垂髪の女
第2扇 刀にもたれる男、犬を連れた女
第3扇 指さす少女
第4扇 文を書く女、脇息にもたれる女、文を読む男
第5扇 双六をする男、口元を隠す女、双六をする女、三味線を弾く鉢巻姿の女
第6扇 器を持つ少女、三味線を弾く男、三味線を弾く後姿の女
 
 ここで私は、直接画像を見ることはできませんし、彦根屏風に描き込まれているかも知れない深い意味合いを理解できるほどの知識もないので、風俗図として彦根屏風に描かれている当時の流行・最先端の文化?について、Kさんの各人物についての説明や上のサイトの記述などを参考にして紹介してみることにします。
 まず、髪型についてです。彦根屏風では、第2扇の「刀にもたれる男」と「犬を連れた女」、および第5扇の「双六をする男」と「口元を隠す女」と「三味線を弾く鉢巻姿の女」の計5人が、明かに髷を結っています。髷は本来は男性の結髪法で、平安期の貴族に始まり、それが武士層にも広がり、戦国時代までは男性に限られていました。安土桃山時代(16世紀末)になると、主に堺や兵庫などの港町の遊女たちが男髷の真似をして髷を結うようになったようです(明の女性の髪型にも似ているところから「唐輪髷」と呼ばれた)。それが江戸時代になってから一般の女性の間にも広がり、兵庫髷、島田髷、勝山髷、笄髷などへと発展してゆきます。
 第2扇の「刀にもたれる男」と「犬を連れた女」は、当時の最先端を行くファッションリーダーのような存在でもあるようです。刀にもたれる男*1は、体をくねらせて大刀にもたれかかり足を宙に浮かせるようにして、右手に扇子をぶらさげていて、当時流行のかぶき者のポーズをしているようです(この男が、第1扇の芭蕉文様の小袖を着けた垂髪の女と視線を合わせるようにして微笑み合っているというのは、なんとも示唆的です)。江戸時代初期、江戸や京・大阪では、弱年の武士や奉公人たちが異様な風をして徒党を組み街に繰り出すようなアウトローの人たちがいて、かぶき者と呼ばれました。また、1603年、京都で出雲の阿国の一座が、このようなかぶき者に男装して扮し、流行唄や踊りも混じえて、女装した茶屋女のもとに通うさまを演じて人気を博します。そして、この阿国の芸を模倣して、各地で遊女などを主演とする女歌舞伎の興行が行われるようになります。第2扇に描かれている、男と同じように髷を結い、鮮やかな小袖を着け、リードのついた洋犬を連れている女は、このような女歌舞伎*2のイメージともつながります。また、南蛮との交流で入ってきた洋犬*3はとても珍しく、それをペットとすることは流行の最先端だったのかも知れません。
  *1 「刀にもたれる男」のKさんによる説明:正面を向いている。左腕を前から右わきまで伸ばし、太刀の頭を掴んでいる。太刀は鞘に入っていて、鞘尻が地面について緩くしなっているように見える。左手の手の甲の上に右の二の腕を載せ、右腕はそのまま前方に伸ばして親指と人差し指で扇子をつまんでぶら下げている。太刀に体を預けるようにもたれかかり、左腰を外側に大きくつきだしている。左腰には脇差もさしている。足は左足のかかと付近に右足裏を添わせるようにしている。大きな花柄の小袖の上に黒い上着を着ている。髪型は髷を結い、両側の髪を短く外側に跳ね返らせている。口を小さく開けて微笑んでいるように見える。歯も書かれている。足元は裸足。
  *2 女歌舞伎:女歌舞伎は官能的で、しばしば遊女を兼ねて「遊女歌舞伎」とも呼ばれるようになり、1629年、幕府は風紀上の弊害を恐れて、女芸人が公衆の前で舞台に立つことを禁じる。女歌舞伎禁止後、若衆歌舞伎が流行するが、これも風俗を乱すとして1652年に禁止される。しかし翌年には、前髪を剃り落として野郎頭にすることと、歌舞を控えて「物真似狂言尽し」を演ずることを条件として、再開を認められた(=野郎歌舞伎)。(女性が舞台に立つことは、明治まで許されなかった。)
  *3 洋犬:例えば神戸市立博物館蔵の「南蛮屏風」には、象やアラビア馬などとともに、グレイハウンド種の洋犬が描かれている。
 
 第5扇には、双六盤を囲んで、双六をする男、口元を隠す女、双六をする女が描かれ、また煙草盆や長いキセルも描かれています。双六はすでに7世紀に日本に伝来し、盤双六が貴族社会の遊びとして行われていましたが、それが江戸期になると一般庶民にも広がります(双六盤が嫁入り道具のひとつとされ、双六が女性のたしなみのひとつとされることもあった)。いっぽう、煙草は当時の最新の風俗でした。タバコは南米原産で、南北アメリカでは古くから喫煙が行われており、それが16世紀後半にヨーロッパにもたらされて急速に広まり、さらに16世紀末から17世紀初めにかけて日本もふくめ世界各地に短期間に普及します。喫煙法は当初はここに描かれているような長いキセル(煙管)が用いられました。寛永年間には、伊達を競う男と遊び女の間で1メートルもある大きなきせるをはでにつくり、花見や遊楽のときに肩に担いで歩くのが流行したそうです。
 
 彦根屏風には、三味線を抱えている人が3人描かれています(第5扇の三味線を弾く鉢巻姿の女、および第6扇の三味線を弾く男と三味線を弾く後姿の女)。三味線も当時は最新の楽器でした。三味線の原型は中国の三弦です。中国南部の福建省の三弦が15世紀には琉球にもたらされ、それが宮廷音楽に取り入れられて三線として発展します。日本へは、永禄年間初頭(1560年ころ)に三弦=三線が琉球と交易をしていた泉州堺に伝えられ、それが改良されて三味線となり、江戸時代には広く一般庶民にまで普及することになります。この三味線への改良と普及には、石村検校*2など、それまで平曲をはじめ琵琶を弾奏していた盲人たちが大きな役割を果たしました。(秀吉の命で、慶長2年(1597年)、琵琶製作の名手神田治光が作った三味線「淀」が現存しているそうです(「淀」の三味線について)。外見は普通の三味線と似ているが、全体に小ぶりで、とくに棹はとても細いということです。)三線から三味線への改良では、撥を使ったりさわり*2をつけたりするなど、琵琶の弾奏法が取り入れられています。
 第5扇の三味線を弾く鉢巻姿の女は、黄地に色とりどりの植物が描かれた小袖を着て、ちょうど今三味線を弾いているところです。左手で糸巻を下から支え、人差し指、中指、薬指でそれぞれ三本の弦を押さえ、右手には細い棒のような撥を持ち、一の糸に当てているところです。この時代の三味線の撥は、琵琶の撥のように先が広がった平たいものではなく、このような細いスティック状のものが多かったということです。また、棹も現在の三味線より細いようです。この鉢巻姿の女は、首を少し回して、向ってすぐ右隣りに描かれている第6扇の器を持つ少女(禿)の方を見ていて、もしかするとなにか会話をしているのかもしれず、お稽古している時のような緊張感はあまり感じられないようです。
 彦根屏風の左端に描かれている第6扇の三味線を弾く男は、盲目の師匠のようです。髪はなく、顔や首あたりのしわの様子から、かなり高齢のように見えます。また、左目は閉じ、右目はうっすらとあけてはいるが黒目部分が黒く塗られていません。茶系の無地の着物に白い袴姿で、左腕を三味線の糸巻にかけて、右手は三味線の胴のところで親指と人差し指で二の糸をつまんでいます(たぶん調弦をしているのでしょう。右膝の前あたりに細い棒のような撥が置かれています)。顔を向かって左上に向け、耳は大きく描かれ、口はややへの字にしています。このような表情からなにを読み取るかは難しいところですが、向い合って稽古している女の三味線の音や自分の調弦の音に聴覚を集中しているのかもしれませんし、あるいは、屏風の左端に描かれている芭蕉文様の女から連想される謡曲の世界と関連づけて能面を想像し、現実からちょっと離れた精神性を表しているとも考えられるかもしれません。三味線を弾く後姿の女は、盲目の師匠と対面で描かれ、背中のほうが見えていて、右手はよく見えていません。うつむき加減で、三味線の胴のあたりを覗き込んでいます(たぶん右手に持った撥の先あたりを見ているのでしょう)。三味線の棹が左肩の上に斜めに伸びていて、 左手は棹の糸巻のすぐ下あたりを下から支えるようにしています(人差し指、中指、薬指は弦から少し離れていて、弦は押えていない)。一生懸命稽古をしている様子が伝わってくるようです。
  *1 石村検校:生年不詳、没年1642年。16世紀末に琵琶法師から三味線演奏家に転じ活動したといわれる。石村検校を三味線の最初の取扱い者としたものには、@文禄年間(1592〜96)琉球に渡り、京都へ帰ってから、三弦の擦弦楽器である小弓(胡弓)から三味線をつくりだしたという『糸竹初心集』の記述、A琉球へ漂着した梅津少将が月琴を学び、1562年(永禄5)帰国後、その子石麻呂(のち盲官を得て石村検校)が月琴を改良して三味線をつくったとする『琉球年代記』の説、Bそして文禄のころ堺中小路に住む石村検校が琉球から渡来した二絃の蛇皮線を改良して三線と名づけたとする『野河検校流三線統系序』の記述などがあるという(『日本大百科事典』の「石村検校」の項より)。石村検校はまた、三味線組歌の本手の最初の作曲者とされている。戦国期まで主に平曲を語る琵琶法師として活動していた盲人男性たちは、江戸時代に入ると、ごく一部の検校は幕府や諸藩の保護の下平家琵琶を伝承し、また九州地方を中心に明治以降まで盲僧として活動を続けた者もいるが、多くは三味線や箏や胡弓に転じ、地歌や浄瑠璃、義太夫など、新たな音楽分野・芸を開拓する。そして、武家や商家、あるいは遊里や芝居小屋などで演奏したり教えたりし、とくに三味線は庶民の間に普及する。
  *2 さわり:三味線や琵琶で、主音とともにビイーンビイーンというような音が混じるようにする工夫、およびそのような音を言う。さわりをつけることで、倍音も含めいくつかの音が重なり、音色に幅や深みが増すように感じられる。さわりをつける方法にはいろいろな工夫が行われてきたようだが、現在の三味線では、振動している一の糸が微かに棹に触れるように棹にわずかな盛り上がり(さわり山)を付けている。三味線のさわりの音は、例えば「さわり」なし〜ありで聴くことができる。
 
 彦根屏風について、風俗図としてどんな最新の風俗が描かれているのかに着目して書いてきました。その中に、江戸時代に庶民に普及し多くの芸事で使われるようになった三味線があり、それを教え広めた盲目の師匠が描かれていました。時代は下りますが、吉原遊興図(古山師政筆)などにも三味線を弾く盲人が描かれています。 (以下続く)
 
(2017年5月22日)