芦雪の襖絵などを体感:愛知県美術館のプログラム

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 11月11日、愛知県美術館で催された「視覚に障がいのある方とのプログラム」に参加しました。視覚障害の人たち(ほとんどは全盲のようです)が15人も参加、1人ずつに案内と解説をしてくださるボランティアが1人ずつ付き、担当の学芸員2人も加えると30数人にもなりました。この種のプログラムとしては、かなり大人数です。
 プログラムの内容はほとんど知らずに参加したのですが、芦雪の襖絵をはじめ、木村定三コレクションの中の将棋盤や踏絵、印象深い数点の彫刻作品など、今回もとても良い出会いがありました。会場はかなり込んでいましたが、回りの人たちの雰囲気もふくめ、午後1時半から3時半まで2時間のプログラム、大いに楽しませていただきました。
 私はまったく知らなかったのですが、ちょうど愛知県美術館で長沢芦雪展が行われていて、その主要な展示である無量寺の襖絵について、無量寺本堂の模型を使って説明してもらうことで、かなりよく理解することができました。無量寺は、本州最南端の和歌山県串本市(北緯33度28分 東経135度47分付近)にある臨済宗東福寺派の寺です。もともとは現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、1707年10月の宝永地震(マグニチュード8.6と推定される南海トラフ巨大地震で、紀伊半島付近は高さ10メートル近い大津波におそわれた)で全壊・流失します。その約80年後、文保愚海和尚によって1786年に再建されます。そのさい、愚海和尚と親交のあった円山応挙(1733〜1795年)が再建を祝って12面の障壁画を描き、その画を弟子の長沢芦雪(1754〜1799年)に託して京から現地南紀に派遣、芦雪はそこで翌年春にかけて無量寺をはじめその他の寺や個人のために多くの障壁画を描きます。今回の芦雪展では、無量寺の本堂を実物大で再現し、来館者はその中に入って芦雪の襖絵を鑑賞できるようになっています。
 私たちが触ったのは、実物の約10分の1の模型です。この模型は、もともとは施工を請け負ったディスプレイ会社が無量寺本堂の再現に当たって参考のために作った縮小模型だとのこと。高校生や大学生の協力で、触ってもだいじょうぶなように合板のささくれをサンドペーパーできれいにしたり、欄間の部分を紙粘土などを使って丁寧に作りこんだりして仕上げてくれたそうです。そしてフォトスポットに展示して、見えない人たちが触察したり見える人たちが写真にも撮れるようにしています。この模型の正面の幅は1メートル20〜30センチほど(ということは、実物の幅は十数メートルでしょうか)で、中央に40センチ弱四方ほどの仏間があり、左右の襖を隔てて両隣りにも部屋があります。また、仏間の奥には本尊(釈迦如来像)を安置する所があります。中央の仏間に入って左側の襖4面に「虎図」右側の襖4面に「龍図」が描かれ、また左側の部屋の右の襖4面(虎図の裏面)から奥の4面にかけて「薔薇図」、右側の部屋の左の襖4面(龍図の裏面)から奥の4面かけて「唐子遊図」が描かれています。
 模型を触察した後で、展示会場に行って各図について説明してもらいました。虎図と龍図はこちら向きに描かれていて、仏間に入ると本尊を守っていた虎と龍がこちらに飛び出してくるような印象をあたえるのかも知れません。虎図は立体コピー図版も用意されていて、かなり迫力あるように見えるようです。触ってみると、後脚が長く伸び尾が上にくるっと巻いていて、こちらに向ってくる感じは分かりましたが、なんか猫を連想してしまい、これが虎なのかなあ?と思ってしまいました(とは言っても、私は虎も小さな模型でちょっと触ったことがあるだけですが)。龍図のほうは、はっきりと描かれているのは顔や爪くらいで、体の大部分は雲や稲妻に隠れて見えていないようです。左の部屋薔薇図は、右角に大きな岩があり、そこから左の奥の面には薔薇の木の枝が伸び雌雄の鶏が細かく描かれ、また岩から手前に向う右側の面には岩の上に3匹の猫と水の中に魚が2匹描かれているそうです。3匹のうちの1匹の猫は水の中の魚を覗き込んでいて、学芸員の方によれば、魚からこの猫を見た姿が、裏面に描かれている虎の姿かも知れないということです。右の部屋の唐子遊図は、寺子屋の子どもたちを思わせるような、いたずらをしたり立って絵を描いたりいろいろしている多くの子どもたち、仔犬が数匹、さらに奥の右端上には子どもたちの所に降りてくるかのように鼠が描かれているそうです。また、左の一番手前には、3人ほどの子どもが仔犬とともに画面から消え入るように描かれているとか。
 展示会場ではその他の芦雪の作品についても少し説明してもらいました。作品が多くて何を説明してもらったら良いのか分からなくなるほどでしたが、蛙や猿などいろいろな動物のいろんな姿が描かれているようで、自由奔放に描いているらしいことは伝わってきました。
 
 木村定三コレクションでは、脚付きの立派なカヤ製の将棋板と、明治時代につくられたという精巧なレプリカの踏絵に触りました。将棋版は、昭和30年ころ大山康晴と升田幸三の対局などで使われた由緒あるものだとのこと(私は若いころよくテレビ対局を聴いていて、大山さんはしばしばその解説をしていました。お二人ともなんともなつかしい名前です)、脚の下のほうにあった2段になった8弁の花のような形は触ってとてもきれいでした。今回触った踏絵は金属製(真鍮のようです)で、江戸幕府が作った20点のうちの一つのレプリカだということです。幅10cm弱、長さ20cm余、厚さ2cmほどの楕円形で、ちょうど足くらいの大きさで、浮き出しではっきりと、赤ちゃんを抱いているマリアと左右にそれを見る聖人?が描かれています。マリアの顔の辺が摩滅しているということですが、触ってはそんなには分かりませんでした。(私は踏絵と言えば木製が多いかなと思っていましたが、金属製のしっかりしたものもあったのですね)。
 
 彫刻で一番印象に残っているのは、戸張孤雁(1882〜1927年)の「煌めく嫉妬」(1923年、ブロンズ)です。高さ30cmくらいだったでしょうか、薄い台の上に正座のような姿勢でうなだれて座っている若い女の像です。顔を下に向け、両手は下に伸ばして、右手は右足先、左手は左足首辺をつかんでいます。すうっと高くのびた鼻筋、小さな胸、とくに前にゆるやかに湾曲した背が印象的です。苦しみをぎゅっと耐え忍んでいるような心のうちが伝わってくるようです。
 袴田京太朗(1963年〜)の「ハルガ」と「Inner Hulga」(2009年)は、とても興味ある作品でした。まず制作技法が変わっていて、厚さ5mmくらいの色とりどりの多くのアクリル板を像の水平断面の形に切って、それらを重ねて全体の像が作られています。触ってみると、確かに全面に横縞のような模様が分かり、見た目も虹のように色が変化してきれいなようです。「ハルガ」は高さ2m近くある女の像です。右膝から下がなくて、その代わりに逆さにした机の脚を支えにして立っています。そして右手で、切り取られた膝から下の足(あるいは義足)の足先を持って逆さにぶらさげています。脚からお腹・胸にかけてはちょっとボリューム感のある女性ですが、頭部はまるで大きな球をたくさんくっつけて作ったようにぼこぼこと大きな出っ張りで覆われていて、とてもふつうの顔とは思えません。また、「Inner Hulga」のほうは、「ハルガ」の各アクリル板の中心部をくりぬいて、それらを重ねたもので、形はハルガのミニチュアのようになっていますし、表面の色を見るとハルガとinner Hulgaの各部分の対応がよく分かるようです。
 実はこの「ハルガ」は、アメリカの南部ジョージア生まれの女性作家オコナー(Flannery O'Connor: 1925〜1964年。26歳で全身性の難病エリテマトーデス(紅斑性狼瘡)を発病、30歳からは松葉杖を使うようになり、39歳の若さで亡くなっている)が30歳の時に書いた短編 Good Country People(新潮社の須山静夫訳『オコナー短編集』では「善良な田舎者」、筑摩書房の横山貞子訳『フラナリー・オコナー全短篇 (上下)』では「田舎の善人」)の主人公です。10歳の時に狩猟中の事故で片足を失い、義足を使うようになります。高学歴ですが、南部で理想とされる女性像からは程遠く、もう20年以上も母親と一緒に暮らしています。そこに、聖書を売り歩いている若い真面目そうなセールスマンがあらわれます。ちょっと誘惑してみようかなと思いきや、なんと彼に義足を奪われてしまい、どうしようもない状態で作品は終わっています。袴田さんの「ハルガ」は、自分のたましいとも言うべき義足を必死に取り換えしているところかもしれません。そしてあの異様な顔は、エリテマトーデスを象徴しているのかも。また「Inner Hulga」は、いっけん頑丈そうな身体の内側に潜む心を表しているのかも知れません。
山本豊一(1899〜1987年)の「立女B」(1969年)は、乾漆像で、触ると表面はすべすべ、ブロンズ像などとは違って、やわらかさとあたたかみが感じられてよかったです。高さは70cmくらいだったでしょうか、頭の後ろで二つに分けた大きな髪の束を、両肘を高く外側にひらくようにして両手で持って立っています。左足をすこし前に出し両脚から腰にかけてちょっとくねらせるようにしていて女性らしさを感じました。
 荻原守衛(1879〜1910年)の「女の胴」(1907年、ブロンズ)は、高さ40cmくらいのトルソです。膝から下がなく、大腿部を前に伸ばして座っています。なんだか後ろに倒れそうとも思うのですが、胴はごつごつ・もりもりした感じでだいじょうぶそう。両脇腹、とくに右脇が胸の一部に食い込むほどにすぱあっと切られていて、印象的でした。
 多和圭三(1952年〜)の「泉:思い」は、40cm四方で高さ60cmほどの、角や稜がくっきりとした四角柱の鉄のかたまりです。最初ちょっと触った時は、このどこが作品なのだろうと思いましたが、上面をよく触ると、ハンマーの跡なのでしょうか、直径5cm前後の反円のようなわずかなくぼみがいくつも一部重なって連なっていて、水の波紋のようにも感じます。そして上面の四方の縁は、ハンマーで叩かれて押し出されたのでしょうか、少し外側にはみ出るように広がっています。説明をしてくださったボランティアの方は、泉から水が溢れ出しているように見えると言っていました。また四角柱の両側面には、切断による跡なのでしょうか、ほぼ水平に上から下まで横縞のようなのが並んでいて、木を切った時に時々あらわれる模様のようにも感じました。この方は、ずうっと鉄を叩いて作品を作り続けているそうです。
 ロダン(1840〜1917年)の「歩く人」(1900年、ブロンズ。鋳造は1920年ころ)は、高さ80cmくらいだったでしょうか、胸から下のトルソです。胴は貧弱だったように思いますが、両脚が長く、大きく、長さ60cmくらいの細長いちょっと舟形を思わせる台の上に、両脚を大きく広げて立っています。右足だったでしょうか、まるでアキレス腱が剥き出しになったかのように、踵の後ろに棒?のようなのが伸びていました。
 
 絵も数点説明してもらいました。ピカソ(1881〜1973年)の「青い肩かけの女」(1902年)は、以前にも解説してもらったことがありますし、立体コピー図も用意されていて輪郭はよく分かりました。画面の左側はなにもなく(青い背景)、右に寄せて女性の上半身が描かれています。両肩に大きな青のショールをかけて胸の前で合わせています。ただ、すべていろいろなトーンの青で描かれているこの絵の雰囲気はなかなか感じ取ることはできませんでした。
バルテュス(Balthus、本名 Balthazar Klossowski。1908〜2001年)の「白馬の上の女性曲馬師」(1941)は、薄暗い情景のなか、チュチュを着け大きな冠をかぶっている少女が白馬に乗っています(解説の方は、12歳くらいの少女かなあと言ってました)。バルテュスはエロティックな少女を多く描いているとのことですが、この絵では静かな背景のなかに、くっきりと明るく少女が描かれているようです。
 ムンク(1863〜1944年)の「イプセン『幽霊』からの一場面」(1906年)は、ムンクの作品らしくちょっと不気味な、緊張や不安を感じさせる絵のようです。45cm×75cmほどの横長の絵で、部屋の中に男女 4人がそれぞれ別の方向を向いてばらばらに描かれ、中央のテーブルの上の黄色い丸いランプに少し照らされてはいるようですが、全体に茶色や黒っぽい色が多いようです。窓から外も見えるようですが、なんだか暗そうな風景。タイトルにもあるように、この絵はムンクと同じノルウェーの劇作家イプセンの『幽霊』の一場面を描いたものだとのこと。イプセンのこの作品は、展示では読むことはできませんでしたが、その詳しい内容をイプセン作「ゆうれい」で読むことができました。複雑な家族関係、そしてどうしようもない破局に向かってしまうという、なんとも救いようのない結末になります。絵の雰囲気もなんとなく想像できるというものです。
 
 今回の多彩なプログラム、大いに楽しませていただきました。愛知県美術館は、リニューアルのため今年12月から1年半ほど閉館するそうです。開館後の新たなプログラムを楽しみにしています。
(2017年11月20日)