長崎の視覚障害の被爆者の証言

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 2017年12月10日、NHKラジオ第2放送の「視覚障害ナビ・ラジオ」という番組で、 長崎で被爆した2人の視覚障害の方の被爆体験が放送されました。番組のタイトルは「長崎・“あの日”を語り継ぐ」。貴重な証言だと思いますので、以下に聴き取ったメモを記します。小見出しは私が付けたものです。
 司会は室由美子さんで、次の方々が出演されました。
佐々木 浜子さん(被爆の証言)
野田 守さん(被爆の証言)
智多(ちた) 正信さん(国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 館長)
野口 豊さん(長崎県視覚障害者協会 会長)
平田 勝政さん(長崎大学教育学部 教授)
 
●佐々木さんの証言
室:今年の夏、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が、初めて視覚障害者の被爆証言を聞き取り発表しました。視覚障害がある人にとって、被爆とはどんな体験だったのでしょうか。
  戦後72年、被爆した方の平均年齢は82歳と言われている今、埋もれていた当事者の声と平和への思いに耳を傾けます。
  今回、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が聞き取りをしたのは、佐々木浜子さん(91歳)です。今は全盲で、長崎市内で1人で暮らしています。今でも食事などの身の回りのことは自分でされていて、私が訪ねた時、玄関には丁寧に皮を剥いた干し柿がつるしてありました。
  原爆が落された時は19歳。あの瞬間のことは今も鮮明に覚えています。
佐々木:ピカアーってしたですもん。もう目の前にねえ、私はお星様の落ちてきたかと思たと。カチャーと音して、ピチャーと。ウワアーと。みんなガチャガチャ家の屋根の瓦とかなにやら、ピチャピチャピチャ落ちてきた。
室:もともと佐々木さんは長崎生まれではありませんでした。祈念館の聞き取りによる体験記では、ご自分の生い立ちを次のように語っています。
  大正15年3月12日、私は神奈川県で生まれました。目が不自由になったのは、 3歳の時でした。母から聞いた原因は、水疱瘡が顔に出来て、目にも入って、ということでした。目が見えていた時の記憶はぜんぜんありません。今も顔に水疱瘡の跡があります。4歳の時に、父の転勤で長崎に来ました。広い庭があり、築百年の、造りのしっかりした家でした。子どものころは「せんでよか」と言って、なにもさせてくれないので、私は家の中で黙って座っていました。ただ座っているだけの暮らしでした。
佐々木:母はなんにも私に教えんかったですよ。それでも私はなんでも自分で研究して、ジャガイモでもなんでも剥きよった。それけん私は今でも料理は自分で仕切ると。学校はね、うちの兄妹が多かったもんやけ、母はもうやりきらんと言うて、小学校くらいの時やっとらんとです。やっぱり行きたあーいと思いましたよ。それでも母がやらん、て言うけん。わたしゃ、こげん目悪うなっても先にはよかこともある、私にはできるやろと、自分ながら思いました。
室:母親に学校に通うことを許してもらえず、いつかきっと良いことがあるだろうと思いながら、弟妹や親戚の子守りをして家で過ごす日々をおくりました。それでも、近所の友達から編物を教えてもらい、それが趣味や仕事になったと言います。父親は佐々木さんが9歳の時に心臓病で亡くなりました。8人兄弟で兄が3人いましたが、全員軍隊に行き戦死しました。戦争で家族が次々と犠牲になるなか、昭和20年8月9日を迎えます。その日もいつもと変わらない朝の風景がありました。
佐々き:もう掃除なんかをしてしもうて、終わったねえと思ってお縁に座ろうと思ったら、隣組で配給があったんですよ。煙草の配給が。それでそれを取りに行くのにお母さんたちが子どもたちを4、5人私に預けていったとよ。それで私は「はい大事に預かっておきます」と言って。私は縁側に座って編物をしていたんですよ。
室:午前11時2分、原爆投下。佐々木さんの家は長崎市西山町。爆心地から2.5キロほど離れた、山の裏側にあったため、壊滅的な被害は免れました。それでも衝撃はすさまじいものでした。
佐々木:ピカアーってしたですもん。もう目の前にねえ、私はお星様の落ちてきたかと思たと。カチャーと音して、ピチャーと。ウワアーと。みんなガチャガチャ家の屋根の瓦とかなにやら、ピチャピチャピチャ落ちてきた。それで私が、あぶないよう言うてから、みんなに布団ばパーって妹や子どもたちにかぶせた。そうしたら爆撃がきて、ひどいひどい、机でもなんでも飛ばす、ガラス戸は割れる、まあ茶棚とかなんとか落ちてくる。はあーよかった、子どもたちに当たらず傷ひとつなく。早く早く、庭がどこだったかと手で触って、靴を探して履いて、はよはよ、防空壕に行こう、また飛行機来るよ、言うて。子どもたちをひっぱって、後ろから子どもたちが来て防空壕に行ったんですよ。子どもたちは後ろから、おかあさん、おかあさん、と泣きながら後ろから付いてきたけどねえ。防空壕に入ろうとしたら、爆風のガスの臭いが、鼻にしみつくほどしてきた。私はハンカチで口とか鼻とかおさえとった。その爆弾がすんだ翌日、黒い雨が降ってきた。激しかった。あの雨は黒かよう、この雨にぬれたら原爆のあれやけいかんとよ、とみんな言いよった。だれもこんな黒い雨見たことない、なんでこんな黒い雨降ってきよるやろとか言っていた。
室:幸いにして家族は無事でしたが、編物を教えてくれた近所の友達は亡くなりました。防空壕で1週間暮らし、8月15日の終戦も壕の中で迎えます。戦争が終わると聞いた時は、ほっとして涙が出ました。その後ようやく自宅の片付けが一段落して戻ることができましたが、原爆の傷跡は街のあちこちに生々しく残っていました。
佐々木:家に帰って来てからです。3日、4日くらいしてからだったかな、ちょうどうちの下が東校だったですもん。そこで死体ば焼いてばかりだった。その臭いがまたまた飛んできて、「ああもう止めて」と私は思った。人間ば焼ばこんな臭いするとばいね、臭いはなんて言うたらよいか分からない、なんとも言えない臭い。昼1時ごろ焼き始めると、5時ごろまでずうっと臭いがしていた。
室:戦後佐々木さんは母親や姉と暮らし、改めて盲学校にも通いました。そこで資格を取り、マッサージを仕事にして家族を助けてきました。
  今年は北朝鮮の核開発が問題となるいっぽう、核兵器廃絶条約を産んだNGOがノーベル平和賞を受賞する*など、核兵器をめぐる問題が注目された年でもあります。今改めて戦争と核兵器についてどう思うかうかがいました。
  * 核兵器禁止条約(Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)が2017年7月7日に国連総会で122か国・地域の賛成多数で採択された(核保有国およびアメリカの核の傘の下にあるNATO加盟国や日本などは反対)。この条約の採択を推進してきた、世界のNGOの連合体である核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons: ICAN)が2017年のノーベル平和賞を受賞した。(なお、核兵器禁止条約は「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」(英: Convention on the Prohibition of the Development, Testing, Production, Stockpiling, Transfer, Use and Threat of Use of Nuclear Weapons and on their Elimination)とも呼ばれる。)
佐々木:もう本当に2度と原爆を落としてもらいたくないですよね。平和になって、戦争起こらんことしてもらいたいと思いますよ。2度とこんな恐ろしいことは起こらないように。
 
●記録することの意義
室:これまで佐々木さんは自分の被爆体験を身近な人には話していましたが、機会がなかったため公にすることはありませんでした。今回はたまたま話を聞いた知り合いが国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に佐々木さんを紹介したため聞き取りが実現したそうです。祈念館館長の智多正信さんに、佐々木さんの体験記を読んだ感想と記録することの意義についてうかがいました。
智多:体験記を読ませていただいて、すごく感銘を受けました。光のとらえ方、音のとらえ方、そして自分自身が回りが見えないなかでどんな行動をとられたか、あるいは人をどうやって助けたりかばったりしたか、ということにすごく感動しました。被爆者の方が82歳という平均年齢になったりするなかで、このときに継承をどうしていくかということ、これが、すべて、広島も長崎も、大きなテーマです。なかなかもう、体験記を新たにお書きになるということは難しくなっているので、やはりお手伝いしながら収録する、そしてそれを公開につなげて行く。そこで被爆体験が記録されるということは、国の施設として、国の資料として、未来永劫責任を持って保管していくということです。
室:祈念館では佐々木さんの体験記を墨字だけでなく点字でも作成し、長崎市や県の盲学校、東京の日本点字図書館に寄贈しました。今後若い人たちに原爆の記憶を伝えていくために役立ててほしいと考えています。
 
●視覚障害者の被爆体験の記録がなぜ少ないのか
室:今回の取材のなかで、私は佐々木浜子さんのほかにも視覚障害者の被爆記録を探しましたが、なかなか見つけることはできませんでした。なぜ記録が少ないのか、長崎県視覚障害者協会の会長 野口豊さんにたずねました。
野口:被爆体験した人の話は聞いたことあるけれども、それを記録するということはしていなかったです。やはり視覚障害者は読み書きがいちばん困難なんです。当時読み書きの支援というのがどの程度あったのか、たぶん自分で書ける方も少なかったんじゃないかな。視覚障害のあった方々がどれほど点字を知っていたかな、と。知らないとその後記録ができない。語り継ぐしかないのかな。だから、私たち視覚障害者で記録を残すというのは、やはりしっかりした気持で整理する力がいるのかな、ということもありますね。
 
●長崎県立盲学校の被爆について
室:戦争当時、爆心地である長崎し浦上には長崎県立盲学校がありました。その学校と生徒はどうなったかを調べたところ、長崎大学教育学部教授の平田勝政さんが論文をまとめられていることが分かりました*。その論文によると、長崎県立盲学校の校舎は軍需工場として使われ、生徒たちは長崎市長与という、爆心地から10キロほど離れた借校舎に疎開していたということです。平田さんのお話です。
  * 平田勝政、早田美紗、菅達也長崎県障害児教育史研究(第V報) : 昭和戦中期?戦後初期の長崎県盲・聾教育を中心に(長崎大学教育学部紀要. 教育科学. vol.62, p.25-32; 2002)
平た:昭和20年の春先から市内の鉄筋コンクリートの建物を選択して、ちょうどここ[長崎県立盲学校]にも兵器工場の分散工場が置かれた*1。何を作っていたかは秘密なので分かりませんけど、表現上は「マルモ工場」、盲学校の「盲」を取ってマルモ工場というかたちになっていた。ちょうどこの長崎の盲唖学校*2が鉄筋なので目をつけられた。で、代替措置として、三菱の保養所と言いましょうか、今もあるんですが、長与の三菱のアパート群があって、そこがおそらく疎開先だったでしょう。長与校舎と言っている。昭和20年の5月くらいだろうと思う。5月、6月にだいたい疎開していると思って、論文ではそういう風に書いている。
   *1 長崎原爆資料館の長崎県立盲学校・長崎県立聾唖学校によれば、上野町のコンクリート2階建の盲学校と聾唖学校の校舎(爆心地から600メートル)には、三菱造船大橋部品工場の一部が疎開していたという。そして、両校が工場になったとき、盲学校は昭和20年6月西彼杵郡長与村丸田郷の仮校舎に、聾唖学校は同年5月、南高来郡加津佐町の仮校舎に、それぞれ疎開していた。ただ、聾唖学校の生徒のうち疎開できなかった者のために、同じ上野町の県立工業学校(爆心地から約800メートル)の土木建築科の教室を借りて分教場としていたが、原爆投下時に生徒が登校していたかどうかは分からないという。「残留組」と称されるこの県立工業学校で教育を受けていた聾唖学校生について、上記平田らの論文では、原爆で県立工業学校は全壊・全焼し、担当教員2名と幼児10数名が亡くなったとある。
   *2 長崎県立盲学校の前身は、1898年の長崎盲唖院で、その後1900年私立長崎盲唖学校、1919年長崎盲唖学校、そして1924年に長崎盲学校と長崎聾唖学校に組織分離された(長崎県立盲学校の歴史)。その後も地元の人たちは長い間盲学校を盲唖学校と呼んでいたと思われる(私は1958年に八戸盲学校に入学しましたが、当時はかなりの人たちが盲唖学校と呼んでいました)。
室:疎開していたということは、盲学校の生徒たちは原爆の被害を免れたのでしょうか。平田さんによれば、かならずしもそうとは限らないということです。
平田:疎開していたそこに盲学校の生徒さんが全員来たのかというと、そうではなくて、中等部のどのあたりから線を引いているのか、中等部2年からとか、いや1年の人もいたとか、いろんな証言があってはっきりしないんですが、全員ではないということは確かです。何名だったか、その人数は、記録簿があればいいんですけど、はっきり分からないです。
室:疎開から2ヶ月余経った8月9日、爆風は疎開した長与にも襲いかかりました。しかし、被害の詳細は伝わっていません。当時市の中心部に出張していた多比良義雄校長は被爆して亡くなりました*。疎開していなかったり実家に戻っていた生徒が何人くらいいて、どんな被害に遭ったかも、記録がなく分からないといいます。
  * 多比良校長が亡くなった状況については、上記平田らの論文では、「公務で県庁に赴きその帰途中に被爆し、翌10日長与校舎に「山を越えて衣類は血みどろになって帰って来」たが、原爆症で終戦まもない8月18日に「新型爆弾、新型爆弾-」と譫言を言いながら絶命した」とある。なお、点字毎日の過去の記事をまとめた 『激動の80年――視覚障害者の歩んだ道程』(2002年、毎日新聞社点字毎日)の1945年8月の項には、「長崎盲校長多比良義雄氏は、9日公務で長崎に出張中、原子爆弾のため頭部や顔面に負傷。市外長与村の疎開学舎に帰校、療養中のところ19日に死去、57歳。氏は昭和10年以来県立長崎盲聾唖学校長として奉職。」とある。
平田:爆風が谷を襲って、かなりの被害と言いましょうか、暴風が走ったと言いましょうかね。疎開先の盲学校の借校舎の窓側のところはガラスがぴいーっと突き刺さっているという証言が残っている。それでケガをしたとかの証言は出ていない。爆風で吹き飛ぶようなかたちでみな転倒した、吹き飛ばされたという証言まではある。目からは入っていないので、いっぺんに割れたような音がしたとか、爆風の衝撃の証言がある*。長与でもそれくらいの衝撃はあったわけですね。その当時担任をされた先生方の証言をほとんど得られていないので、また多比良校長さんも亡くなられているし、核心部分の所は空白で、どこまで埋められるか努力をしてきたのですが、今言ったことくらいしか、です。研究に取り組む時には、時すでに遅し。
  * 上記平田らの論文には、長与の疎開校舎にいた生徒らの証言として「桃色がかった稲妻の何百倍も強い光が教室全体を染めたかと思った瞬間、何百本ものビール瓶を箱ごと石にぶっつけたような音がして、教室の天井は押し上げられ、机の上の教科書や筆箱など目茶苦茶に飛ばされてしまった。学校中が騒然となり、もう授業どころではなかった。」とある。また、上記長崎県立盲学校の歴史のページでは、夏休みで市内に帰省していた生徒4名が亡くなったとある。
室:時すでに遅し、という平田さんの言葉があまりにも重く感じられます。
 
●野田さんの証言
室:取材を続けるなかで、長崎県視覚障害者協会の野口会長から証言できる方がいるとご紹介いただきました。野田守さんという89歳の男性です。野田さんは長崎県平戸生まれ。4歳の時、栄養不良のため目が見えなくなりました。被爆当時は17歳。長崎県立盲学校初頭部を卒業し、自宅で家族とともに暮らしていました。野田さんによれば、自分より上の中等部の生徒は長与の借校舎に疎開したものの、初等部は自宅学習にされたと言います。また、夏休みの時期でもあり、8月9日にはその生徒たちがどうなったか、野田さんにも分かりません。原爆が落とされた時、野田さんは爆心地からおよそ700メートル離れた山の中の小屋にいました。空襲から逃れるため家族で移った仮住まいです。母親は山の上で畑仕事、野田さんは1歳になる姉の子どもをあずかり遊ばせていました。
野田:朝から1年くらいになる甥っ子をあずかって、アコーディオンをひいて遊んでいたんです。その時はなにひいてたかなあ、童謡かなんかひいてたと思います。11時ちょっと過ぎごろかな、その時にすごい爆風がきたんですね。左のほうからバアーっとすごいのがきた感じしたんですよ。なまぬるい爆風がね。窓なんかもガラスもみんなすっ飛んだからね、割れて。それで上に頭上げてみたら、上から太陽が射しているんですよ。ということは、屋根が飛ばされちゃった。屋根が飛ばされているということは、これはあぶないから、ここにはおれないなあということで、私は裏のほうにちょっと行って窓を開けてみたら、裏に大きい檜があったんですけど、その檜がすごい音たてて燃えているんですよ。やっぱり逃げたほうがいいだろう思って、私はその甥っ子を抱いて、そして押し入れから丹前取って、左手で抱いて、丹前を右手で持って、外へ出たんですね。
室:野田さんは左腕に甥、右腕に防空頭巾代わりの丹前を抱え、小屋を飛び出しました。割れたガラスの破片で足を何箇所も切りましたが、その時は気付かなかったと言います。いつもは母親や弟に手を引かれて歩く山道、幅2メートルの川に架けてある40センチほどの細い橋も感にまかせて走り抜けました。
野田:みんなもうびっくりしてるんですよ、よくこのくらいの狭い所を落ちなかったねえって。落ちたら私もそこで、子どもと一緒に、どうなるか分からなかった。うん、だから奇蹟みたいなもんですね。それを渡って、それから左へずうっとだらだら坂にかけ下りって行ったんですよ。30メートルくらい下りて行った所に横穴が掘ってあったんですよね、そこにみんな入ってて、私かけ下りて行っているもんですから、それ見て、おまえさんこっちだよ、とそこに呼び入れてくれて、その子を抱いてそこに入って行ったんですよ。そしたらおふくろが私の名前呼んで下りて来たんですよ。今度はまたすぐおふくろが甥っ子しょって、私の手を引いて、ずうっと下へ下りて行った。下は下でわきあたりみんなじりじり燃えているんですよ。だからあぶないなあと思ったんですけど、広場だったらだいじょうぶだろういうことで、その広場へ伏せたんです。そしたらそのそばへ焼けただれた人をどんどん運んでくるんですよ。それでもう、すごい異様な臭いがしてね。暑い時ですからね、みなさん裸でいたり薄着でいたりしてる。だから皮膚が剥けて下がって、そういう病人をけっこう担ぎこんで運んでいるんですよ。そしたらもう、私も知らなかった、うちのおふくろも、前のほうはもううんと火傷しちゃって、顔からずうっと火傷しちゃって。正面から受けたんですよ、あの爆風を。顔なんかもうすごく火傷しちゃって。痛い痛いと言ってました。こう腫れあがってね。黒いもんぺみたいなのをはいていたんですね。そしたらそのもんぺも焼けて切れちゃうんです。ですから下までずうっと足の所も火傷していたらしいんですよ、周囲からいろいろな話を聞いた。私たちのいる所でそうだったんですけど、やはりもう回りもすごかったらしいですよ。だから私もいとこなんかもそれで火傷して死んじゃったんですけどね。私と同じくらいのものがいたんですよ、やはり。その人は焼けて死んじゃった。私は、ちょうど高い山の陰なったんで助かった。
室:体中に大やけどを負った野田さんのお母さんでしたが、家族の懸命な看護によりなんとか一命を取り留めました。しかし、爆心地近くに出かけていた兄は消息がまったく分かりません。必死にたずね歩きましたが、あきらめざるをえませんでした。
野田:結局兄貴はとうとう見つからなかったですからね。お墓に入れるのに、兄貴の家にあった洋服みたいなのをお墓の中に入れたんです、遺骨がないからね。
室:市内にあった実家も完全に焼けてしまい、終戦は借住まいにしていた山小屋で迎えました。
野田:15日、上の家にいてラジオ聞いたら、ちょうど天皇陛下が無条件降伏しますとちょうど言っているところを聞いたんです。まあほんとうにねえ、とうとう負けたか、だけどよかったな、これ以上に続いてたら我々どうなるかわかんないし、よかったじゃないか、簡単に負けて降伏してもらってよかったよ、私たちそういう気になったよね。ほんとうにほっとしましたよ。
室:幸いにして野田さん自身は原爆でやけどやケガをせずに生き延びました。しかし、その後しばらく体調がすぐれない日が続きました。
野田:みんなね、しばらく、1ヶ月近くは血がくだりましたよ。血の混じった便ですよ。私もね直接は受けてなかったんだけど、みんなそうですよ。かぼちゃがぐじゃぐじゃぐじゃぐじゃしたかぼちゃみたいになって、それを食べるでしょ、そうすると食べた後下痢みたいになってね、血のうんこが出てくるんですよ。それが何週間かあった。もうしばらく、血なまぐさい感じでいなくちゃいけないんだから。あんなの、もうあれはあってはいけませんよ。ああいう経験はね、ぼくは2度と他の人にさせたくないですよ、はっきり言って。
室:原爆のために住まいも仕事も失った野田さん一家、戦後は親戚をたどり家族で東京へ移らざるをえませんでした。その後盲学校の専攻科で資格を取り、鍼灸師として東京で治療院を開いて、経済的にも自立します。しかし身体の不調は続き、今でも15分でも日光をあびると膚が赤く腫れあがってしまうため、冬も日傘が手放せないそうです。最後に、被爆者として今何を伝えたいかうかがいました。
野田:原爆っていったら、回りじゅうがほんとうに野っ原になるんですよ。みんな焼け野原でね、私も驚きましたよもう。なんにもないんですよ、家もあった、ここにも家もあったのが、なあんにもない。だからそういうの、想像できないでしょう。とにかくもうそういうことは 2度とあっちゃいけないと思いますけど、経験していない人はわからないけれど、経験した人から言わせると、こういうことは 2度とあってはいけない。ただ、それだけですね。
室: 2度とあってはいけない、という体験した人の言葉、その重みをしっかりと受け止めていきたいと思います。佐々木浜子さん、野田守さん、今回は貴重な体験を語っていただき、ほんとうにありがとうございました。
 *「点字毎日」第4901号(2018年7月29日)に「あの日を忘れない―長崎で被爆した野田さん―」が掲載されました。内容は、今回の放送内容とほぼ同じようなものでした。記事の最後で野田さんは、「生き残った者は、原爆はだめだ、戦争だけは絶対にしてはいけないと言い続ける必要がある」と述べています。
(2018年1月4日、7月31日追加)