BIZEN中南米美術館

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 2月3日、Mさんと一緒に、岡山県備前市日生(ひなせ)にある「BIZEN中南米美術館」に行きました。
 同館見学の1週間前の1月27日午後に、木彫をしながらNHKのラジオを聞いていたら、偶然この館についての放送がありました。この美術館設立の経緯や土偶などの展示品について簡単に紹介されていました。その中で私がとくに興味を持ったのは、多くの土偶には穴が空いていて、その中の 1つを実際に吹くと 2重に重なったような音が聞えてきたことです。土偶がオカリナ?これは面白いと思い、ぜひ行ってみようと、早速美術館に電話しました。この美術館は土曜・日曜と祝日のみの開館(場合によっては平日でも見学可能)ですが、しばしば館長さんがガイドツアーをしているとのこと、早速2月3日午後2時からのガイドツアーに申し込みました。
 総持寺から梅田、姫路、播州赤穂を経由して、3時間余かかってお昼ころ日生に到着。海に面し、船が見え、いくつも島が見えているようです。美術館に向ってゆっくり歩いていくと、途中にはカキなど魚介の店がいくつもあり、しばしば海の香もしてきます。私たちも、日生名物だというカキオコ(カキがいっぱい入ったお好み焼き)を食べました。1時半ころ美術館に到着、外壁には20cm4方弱の備前焼の陶板が全面に張り付けてあります。建物はそんなに大きくはないようですが、中の展示はとても素晴しいようです。ちょうど「古代アメリカ六千年文明展」(これは、日本とエクアドルの外交関係樹立100周年を記念した展覧会だとか)が開かれていました。
 2時前から 3代目館長森下矢須之氏によるガイドツアーが始まりました(参加者は、初めは数人でしたが、途中から10人近くになりました)。初めに、この美術館の設立についてお話がありました。森下館長の祖父森下精一(1904〜1978年)氏は、魚網製造販売の事業で財をなし、商用で南米を訪れた時に古代アメリカ文化の遺物に触れてその魅力にとりつかれ、やがて中南米10カ国に及ぶ質量ともに優れたコレクションを持つに至り、1975年にこの美術館を創設したということです(とくに、実業家・考古学者で、ペルーのリマに古代アンデス文明の土器や織物などを集めて博物館を設けた天野芳太郎(1898〜1982年)との出会いが大きかったようだ。詳しくは、古代アンデス文明と日本人─放送大学特別講義と展示会)。
 この美術館には、時代としては紀元前4000年くらいから16世紀まで、地域としては北はメキシコから南はボリビアやペルーまでの、約2000展が収蔵されているそうです。この時代の中南米について私がちょっと聞き知っているのは、インカ、アステカ、マヤ、ナスカ、オルメカなどくらいですが、この美術館のカバーする時代も地域も広く、解説では次々といろいろな文化が出てきて、1度や2度の見学ではこの美術館の全貌を把握するのはとてもできそうにありません。私たちが行った時はちょうど「古代アメリカ六千年文明展」が開かれていて、日本初公開の古代エクアドル美術品約100点も展示されているとか。
 美術館の 1階では主にペルー・エクアドル・ボリビアのアンデス文化、2階では主にメキシコ中央高原とマヤ地域のメソアメリカ文化、および両文化の中間地帯(カリブ海の島々もふくむ)の文化が中心に展示されているそうです。以下では、解説を聞きながら私が感じた中南米の文化の全体的な感想と、少し触ったりしてとくに印象に残っていることについて書いてみます。
 中南米の文化(アンデスとメソアメリカ)の特徴としては、まずそれが石器段階の文化であったということです。鞴が発明されなかったために高温が得られず、鉄器が作られることはありませんでした(ただし、金や銀・銅は使われた)。磨製石器、土器、それに日干し煉瓦を使った文化であり、車が使われなかったためほとんど人力で大神殿や都市が作られ、国家、さらには帝国?も生まれました。土器の製作でも800℃強の低温で焼かれていて、磁器のような高温で焼かれた硬いものはなかったようです。また轆轤が使われず、いわゆる手捻りあるいは型を使って作っていました。それでも作りや文様は極めて精巧なようで、いくつか実際に触った土器や土偶は、表面がつるつるで、壁は薄く、中が中空になっていたり、穴もたくさん空いていました。エジプトやメソポタミア、中国、インドの古代文明は大河と結び付いたものですが、大河がなくても灌漑農業が発達し(ユカタン半島の石灰岩地帯ではセノーテという天然の井戸?が使われた)、後には広域的な道路網が整備されました。記録を残す方法として、マヤではマヤ文字(現在ではその80〜90%が解読され、伝承や歴史について詳しく分かってきたようです)、インカではキープという縄の結び目を使った記号が使われました。石器段階でも、これほどの文化・文明が発達することにはちょっと驚きました。
 
 初めに、紀元前4千から同1500年ころのバルディヴィア文化(エクアドル南部の太平洋岸)の女性の土偶が紹介されました。土器よりも土偶のほうが多いようです。また貝製の耳飾りもあるようです。ここの美術館ではこのバルディヴィア文化の土偶・土器がもっとも古い展示品だそうです。次に、紀元前1500年から同1000年ころのマチャリーリャ文化(エクアドルノ海岸地方)の刻文ボトルが展示されていました(どんなものかはよく分からない)。(なお、ペルーやエクアドルによく見られる、壺の上部の首の部分が輪のような構造になった鐙型土器は、このマチャリーリャ文化が最初のようです。)これらの文化では、人々は海沿いで漁労中心の生活をしていたようです。
 エクアドルのチョレーラ文化(紀元前1200年から同200年ころ)関連で、務川(むかわ)めぐみさん制作のペッカリーをモチーフにした木版画に触りました。ペッカリーはこの美術館のマスコットキャラクターだとのこと。この木版画は幅1mくらい、高さも1m近くある大きなもので、ペッカリーの顔や大きく広げた脚など触って少し分かりました。チョレーラ文化の出土品でペッカリーという動物の土偶があり、それをモデルにこのキャラクターが考え出され、備前市や岡山県のPRに一役買っているそうです。点字ブロック上に物を置かないようにのキャンペーン(点字ブロックは岡山県発祥)とか、竹内昌彦(1945年生まれ。幼少期に失明。岡山県立岡山盲学校の元教頭で、在職中から多くの講演を行い、退職後はモンゴルなど途上国支援を行っている)の映画「見えないから見えたもの」の主題歌も歌っていました(森下館長のスマホで聞かせてもらいました)。ペッカリーという動物は私は初耳でした。偶蹄目ペッカリー科に属し、姿はイノシシそっくりですが、背中に臭いのある分泌物を出す腺があって、これをへそに見立てて日本語ではヘソイノシシというそうです。帰りにミュージアムショップにある5cmほどの小さなペッカリーの模型?のようなのを触りましたが、あまり特徴は分かりませんでした。
 紀元前50年ころから紀元600年ころのビクス文化(ペルーの極北部海岸)の土器で、 チチャというトウモロコシからつくられた酒を入れる器がありました。この器に酒を入れて揺らすと、音が出る構造になっているそうです。見えないのではっきりは分かりませんが、上のほうに2つほど穴があって、森下館長がその穴を実際に吹いてみると、ヒューヒューというようなかすかな音がしました。
 次に、上のラジオ放送で聞いた土偶です。紀元前500年〜紀元650年ころのバイーア文化(エクアドルの中部海岸)の女性の土偶でした。展示されているのは7点で、そのうち6点の土偶は音が出るそうです。私が触ったのは高さ30cm弱のやや平べったい感じで、顔から胸、脚まで細かく表現されていました。とくに顔の上のほうにはぶつぶつしたような小さな突起のようなものもありました。首の後ろ辺に大きな穴(これが吹き口)が空いており、お腹の下辺りにも穴が2つ空いています。森下館長が、2つの穴を押えない場合、片方の穴だけを押さえた場合、両方の穴を押えた場合について音を出しました。それぞれの状態で音が違っており、とくに2つの穴をともに押えた場合には、少し違う音が重なって鳴っているような、ビイイーというような音がします。この女性像をスキャンしてみると、お腹のあたりに細い2本の竹の筒?のようなものが入っているそうです。
  触って面白かったのは、紀元500年ころから1532年まで(スペインによる征服まで)のマンテーニョ文化(エクアドル中部海岸)のなんだか玩具のようにも思える土偶です。直径10cmくらいの、下面は平らで、ふわあっとお山のように盛り上がった形(皆さんまるで甘食みたいだと言ってました)をしていて、持ってみると中は空洞になっているのでしょう、ても軽いです。また、直径5cmほどの半球上の上に、1cm弱の丸い突起が乗ったものがあって、これを触って私は女のおっぱいかなあ?と思いました。森下館長によれば、これはおそらく赤ちゃんのおしゃぶりだっただろうとのこと、納得しました。これも中空になっているようで、とても軽いものでした。その他にも、いろいろな魚や犬や鹿などの形をした土偶があって、それぞれ数個穴があって、吹くとピーというような高い音が出ていました。
 また、長さ20cmくらい、高さ十数cm、幅10cmほどの、中が宙空のシカにも触りましたが、これは、背中の上に、頭の後ろからお尻に向って橋のように薄い板のようなのが渡されているという変わったものでした。その橋の部分をおそるおそる持ってみました(動物の本体にはいくつも穴が開いていた)。このようなものは橋型土器と呼ばれ、いくつかの動物の土偶で同じ形式のものがありました。これは、上のビクス文化(紀元前50年ころから紀元600年ころの、ペルーの極北部海岸)のものだそうです。
 私が触ったのは、このようにエクアドルないしその周辺のものですが、このアンデス地域の文化は、形成期(紀元前4000年ころから同300年ころまで)、地方発展期(紀元前300年ころから紀元700年ころまで)、統合期(700年ころ以降からスペインに征服される16世紀前半まで)の3期に分けられるそうです。土器や土偶の製作が始まるのは紀元前4000年ころからです(トウモロコシやヒョウタンなどの栽培が始まったのはそれよりもだいぶ古いようだ)が、土器よりも土偶が多く、また土器は先のとがった形(ヒョウタンの形に似ている)も多いようです。携帯用の器としてはヒョウタンのほうがずっと便利だったでしょうし、この美術館には煮炊きに使ったような土器はあまり展示されていないようです。実用的な土器よりも、儀式や祭りやときには遊び?などの時に使われる多種多様な形や文様の、多くは中が空洞になった、人物や動物やときには神のようなものの像です。文様については、浮き出させたい部分に予め蝋などを塗っておいてから焼くと、蝋などの部分が溶けて白っぽい地の部分が現われてくるというネガティブ技法もよく使われていました。地方発展期の展示品としては、ハマ・コアケ、ラ・トリータ、ナスカ、それにモチェなどのものがありました。農業に依存し、明確な階級社会になり、それぞれ中心には大神殿を設けました。戦士や神官の像、さらに笛や農具などの持ち物や頭飾りなどを付け替えられるようにした着せ替え人形?のようなものまでありました。統合期になると、初めはワリ、しばらくしてチムーやチンチャなど、そしてインカ帝国が成立してこの地域は統一されます(インカ帝国の最盛期には、チリ北部、アルゼンチン北西部、ペルー、ボリビアの一部(チチカカ湖周辺)、エクアドル、コロンビア南部までの、約200万平方キロメートル近くの広範囲に支配が及び、約80の民族、1500万の人口をふくんだようです。しかし、エクアドルでも海岸部のハマ・コアケなどは、少なくともスペイン人がやって来たころは独立していたようです)。
 
 2階では、9世紀から14世紀までのニコヤ文化(中米コスタリカのニコヤ半島部。この地域は、その北西のニカラグアの太平洋岸地方とともに、マヤ文化の影響が強い)のメタテとマノを触りました。メタテは、平たい磨り臼のようなもので、長さ20数cm、幅10数cm、手前の高さ15cmくらい、向こうの高さ6、7cmほどの、上面が手前から向こうに斜面になった石です。真ん中あたりには磨りつぶしたような痕が触ってもよく分かりました。マノは、このメタテの上で横に転がして使う石の磨り棒で、直径3cm余くらい、長さ6、7cmありました(一部欠けていて実際はもっと長いそうです)。このメタテとマノを使って、トウモロコシやカカオなどを磨りつぶしたそうです。現在もメキシコなどではほぼ同じ物が使われているそうです。なお、ニコヤ文化のものだったかと思いますが、三足の動物象形土器も展示されていました。
 また、ツアー参加者全員に、マヤの王たちが毎日30杯ほど、トウモロコシの団子を食べながら飲んでいたというチョコレートがふるまわれました。お猪口ほどの小さな杯に入っていて、その日はチョコレートの中にリュウゼツランの茎にたまる蜜水を煮詰めた蜜が少し入れてあるそうです。わずかに甘いような香がして、とても美味しかったです(これで長生きできたのでしょうか?)。チョコレートは、マヤの王たちだけでなく、オルメカの支配者、チアパス地方の支配者、さらにはアステカの王たちも飲んでいたということです。ちなみに、オルメカの人たちが残した石像や石柱に描かれた人物像を見ると、アメリカ先住民のモンゴロイド系とはまったく違っていて、アフリカの黒人、あるいは中には白人のように見えるものもあるらしいです。学者の中には、3000年も前に栄えた不思議なオルメカ文明について、大西洋を渡って来たアフリカの人たちが担い手だったとする者もいるとか。
 レプリカのようですが、石碑に、様々な神に扮した王の姿や儀礼の際の姿が描かれていて、これは、マヤの王たちがほぼ毎日行っていた儀式の模様を示したものらしく、王は石舞台の上で民衆を前に踊っていたらしいです。チョコレートを飲んで活力を得、お尻から幻覚剤を注入してトランス状態になって神と交流し自らの権威を更新していたようです。王もたいへん!
 ちょっと驚いたのは、チャクモールとその解説です。チャクモールは、両膝を立てて仰向けになり顔を横に向けてお腹の上に供物を入れる大きな皿のようなのを乗せているような人物像です。この皿の上には、生贄の人からえぐり出された心臓が置かれていたそうです。マヤでは、最盛期には数千人から十数万人規模の国が100くらいあったと言います。マヤのこれら各国では、ほぼ毎日神に心臓を供える儀式が行われていたとか!(アステカでも同様のことが行われた)。ときには生贄にする人が足りなくなって、回りの国となれあいの戦いをして互いに生贄用の捕虜を確保するようなこともあったとか!こんなことをして、文明が続くのかと思うほどです。人の営む文化・文明、何でもありどいった感です。
 
 ツアー終了後、ミュージアムショップでカリブ海の先住民だというタイノ族の壺のようなもの(レプリカ)に触りました。カリブ海の西インド諸島の先住民は、ヨーロッパからもたらされた疫病やスペイン人の植民者による過酷な使役などのためほぼ絶滅したと思っていたので、その先住民の物に触れられたことにびっくりしました。高さ10cmくらいで、口が両側に細く広がっていました(以前にこんな形の花瓶を作ったことがあったなあ)。タイノ族はイスパニョーラ島やプエルト・リコ島で首長制の階層社会に暮らしていたらしいですが、その一部がアメリカの東海岸部に奴隷として運ばれ、その一部が現在生き残っているとか。
 ショップでは、「トポシュテ」という、ラモンという樹の実を粉にしたものを買って帰りました。ラモンはグァテマラの熱帯雨林の中で樹高45mにも達する一番大きな樹だそうです。以前は中米の熱帯林に広く分布し、樹上の実は鳥や動物が食べ、落ちてきた実を人が食べていたそうです(マヤの人たちにとっては、トウモロコシなどとともに主食の1つだったとか)。今は、グァテマラの女性の収入源の1つとして、熱帯林を保全しラモンの実を採取しトポシュテとして販売しているとのことです。トポシュテ、私の好みに合うようで、時々コーヒーのような香りを楽しみながら、スプーンで粉まですくい取って食べて?います。
 
 BIZEN中南米美術館の展示、そして森下館長のお話は多岐にわたり、1度や2度の見学ではとても消化しきれないといった感じです。森下館長はもっといろいろな展示品を紹介しお話していましたが、なにしろ私は見えないので、展示品と話の結び付きがよく分からず、大部分は断片的なメモになってしまい、文章にはできませんでした。実際に触ったり、とくに印象に残ってネットで確認できたものについてまとめてみました。これまでなんとなく知っていた文明・文化のあり方とは違った人のいとなみ、生き方・考え方にふれられるようで、ラテンアメリカの人たちについてもうしばらく調べてみようと思っています。
 
(2018年2月28日)